3、今の時代は――
体はゆっくりと、しかし確実に、大破した船のパーツの間を沈んでいく。
底が見えず、光の届かない海峡に吸い込まれるように。
手を伸ばしても届かない水面。
屈折する水の外に、また一隻、戦艦が沈むのが見える。
時折聞こえる爆発音。
瞬間的に、海面を覆う炎。
雄叫び、悲鳴、意味の分からない叫び声――。
ゴボゴボ、と体から酸素が抜けていき、息苦しさを感じた近藤は藻掻こうとした。
しかし、のばした手は虚しく水を掠め取り、体は同じように沈んでいく。
力が入らず、その時、近藤は初めて気づいた。
自分の周りに漂う赤い水は、自分の血なのだと。
近藤は、意識が遠のく事に抗うことが出来なかった。
◇◇
「東郷大将の率いる大日本帝国艦隊は、バルチック艦隊を前に全滅……帰還したのは、大型艦一隻、中型艦、小型艦が三隻ずつです」
秘書の金井から報告を受け、首相の桂太郎は机をコツコツと叩いていた指の動きを止めた。
「……まさか」
一概に、信じられない、といった口調ではなかったが、やはり動揺しているようだった。
「当初、東郷大将の勝利の報告を受けてから、米国に仲介を頼み、こちらに有利な条件で講和するつもりでしたが……」
と、金井が続けた。
その表情は苦し気で、グッと拳を握っている。
桂は突然立ち上がった。
机の上に広げた重要な書類を脇に抱え、金井が開ける前に自分でドアを開け、赤い絨毯が引かれた長い廊下を早足に進む。
進みながら、桂は強い表情で言い切った。
「講和だ。予定通り、米国に仲介を頼み、講和会議を行う」
今、講和会議をすれば、日本は相当不利な条件を飲む事になるが、それでも桂が出した答えは講和だった。
状況が飲み込み切れず、桂が今、どこへ急いでいるのかも分からなかった金井は、桂の前に立ちふさがって、待ってください、と声を荒げた。
桂は鋭い視線で金井を見据えた。
金井は臆することなく食ってかかった。
「今、降伏すれば日本は相当、不利な条件を飲まされます。満州の権利もすべて失い、大陸への進出は絶望的になります。十年後、二十年後の国益を考えれば、今は、例えどれだけ苦しい戦いでも、国内一丸となって……」
「無駄だ。もう、民衆を抑えるのは限界だ。愛国心だけではどうにもならん事もある」
「しかし、ロシア帝国もまた、国内で革命の火種が起こり始めています。あと少し、耐え抜けば……」
◇◇
結局、桂は最後まで金井の意見を聞き入れなかった。
その事が不服だった金井は、勢いで壁を蹴って出てきてしまった。
特に用もなく、帰りにくいので意味もなく街を歩く。
日本のためを思えば、今すぐにでも戻って桂を説得しなければいけないと、金井は思っていたが、理屈で感情を抑えきれるタイプでもなかった。
意味もなく歩き、気付けば下町に迷い込む。
そうして顔を上げて見れば、見覚えのない場所で、大の大人でありながら迷子になっていた。
金井は溜息をついて、近くの空き地に腰を下ろした。
「おじさんも迷子?」
子どもなんか居なかったのに、と思いながら金井が辺りを見渡すと、後ろの土管から小さな女の子がはい出てきたところだった。
金井は子供は何でもお見通しだな、と苦笑いを浮かべ、それから、それは感情を国益より優先してしまった自分を自嘲する笑いなのだと気付いた。
「まぁね。大人は悩みが多いからね」
金井はかなり冷静になってきたので、その女の子を見て、随分、変わった格好をしていると気付いた。
それに何より、来ている服の糸が上等だ。
戦後、日本は大きく紡績業が発展したが、その最新技術を集めても尚、勝てるか分からないほどに。
いや、それは心の中で思った負け惜しみで、金井は本当は勝てないと分かっていた。
「つかないことを聞くが、その服は、どこで買ったんだい?」
女の子は自分の服と金井のスーツを見比べ、何かにハッとしたようで、あぁ、と頷いた。
「これはユニクロだけど……」
「ユニクロ?聞いた事が無いな」
「だよね。今の時代――ユニクロなんてないもんね」
今の時代――という言葉が金井の心に引っかかった。
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