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2、一人の少将

 バルチック艦隊を捉える事に失敗した日本軍は、斜め後ろを取られる事になり、反撃するには余りに手数が少なく、一度、大きく旋回する必要があった。


 戦争慣れした軍人たちは、近藤が指示するまでなく動き出しているものの、不利であることには変わりない。ましてや、相手は世界最強と恐れられたバルチック艦隊。


 近くの水面に大砲の弾が着弾して船が大きく揺れた。


 小回りの利く駆逐艦が砲撃をして時間を稼いでいるものの、大型の戦艦が向きを変えるには時間がかかり、その間に、何発かの砲弾が命中する。

 

 近藤の乗る艦隊も例外ではなかった。


 命中する度に船内に大きな振動が走り、火の粉が散る。


 船の側面からは火の手が上がった。


 近藤は幾つもの怒声や爆発音が交差する中、総火力の攻撃を命じた。


 艦隊がこれだけ密集する中、勝手な行動を取れば味方同士、ぶつかって相打ちになるため、本艦からの命令が無い限り、基本、各戦艦は応戦する以外の道はない。


 それに、近藤は引く気もなかった。


「撃て!撃て!撃ッ……」


 飛んできた砲弾の内一発が、本艦の司令部に命中し、火の手が上がった。


 近藤が望遠鏡を覗くと、ちょうどその先に、東郷平八郎と思わしき人物が海へと落ちていくのが映った。

 元帥と、次に指揮を引き継ぐ幹部の全滅――それはすなわち、敗北を意味する。


  ◇◇


 近藤は布団の上で飛び起きた瞬間、とんでもなく大きな声が出たように錯覚した。


 しかし、実際は静かな夜であり、秋の虫の音が、広い庭に静かに存在している。


 近藤は浴衣の下にぐっしょりとかいた汗を拭い、荒くなった呼吸を整えながら立ち上がった。


 壁に掛けた時計を見ても、まだ夜の二時で、軍人たちが帰ってから一時間と寝ていない。


 それでも落ち着くことの出来なかった近藤は、床の間の黒電話の前で胡坐をかいた。


 横に置いておいた電話帳を手にし、外務省の番号を探す。


 現在、海軍にはいって来た情報では、日本海で戦闘を終えたバルチック艦隊は、一定数損害を与えたことが功を奏したようで、満州で再編しているらしく、すぐさま、本土に攻めて来るということは無い。


 ただ、満州が奪われたことは変わりなく、日本のユーラシア大陸への進出は絶望的となった。

 少なくとも、あと数年で解決できる問題ではない。


 近藤はページをめくる手に力がこもるのを感じた。


 その時だった、黒電話が鳴った。


 近藤は一瞬肩を竦めて、黒電話を見やった。


 どこか、この電話を取ってはいけないような気がした。


 広い屋敷が不気味に感じられ、枕もとの行灯あんどんの明かりの届かない暗闇に何か潜んでいるようだった。


 虫の声は消え、代わりに黒電話が鳴り続ける。


 長いような、短いような、近藤は恐怖を消す訳でもなく、理由も分からず電話を取った。


 受話器を耳に当て、相手の一声を待つ。


 普段は気に留める事もない沈黙が、今日は長く思えた。


「タス……」


「助けッ、ザザッ……」


「助けて……“零明”の時代、日本は……滅びる」


 プツリと電話が切れた。


 残された静寂のうちに、何度も頭の中をあどけない少女の声が往復する。


 思い出したように庭先で虫たちが鳴き始めた。


 近藤は動けずに固まっていた。


 が、突如として口端を緩めた。

 いや、自然と笑いが零れたという方が正確だ。


 近藤は、ピーピーと鳴り続ける受話器を置くと、ゆっくりと立ち上がった。


 海軍元帥に向かって大日本帝国の滅亡を囁くとは死刑になってもおかしくない重罪だが、近藤は、今回ばかりは目を覚まされたような気がした。

 尊敬していた東郷の死、海軍の半壊、突然のしかかってきた海軍元帥という重荷。


 ロシアは待ってくれない。

 海軍や外務省からは療養を優先するよう言われていたものの、近藤は国会へ行く準備をし、夜明け頃、背広に身を包んで、馬車へと乗り込んだ。


  ◇◇


 甲板には無数の死体が転がり、その中には日本兵の物もあり、ロシア兵の物もある。


 その間を、一人の艦長に率いられ、六人の軍人たちが進んだ。


 艦長――小枝 優作は軍人学校出身の下級華族ではあるものの、他は平民出身で、全員が全員、戦績を上げてここまで上り詰めた男達だ。


 小枝も、少将でありながら、一つの艦隊の指揮を任されるほどの切れ者であり、東郷平八郎率いる、大艦隊の敗北後、度重なるロシアとの小競り合いを勝ち続けてきた一番の立役者だ。


「小枝少将、近藤元帥から指令です」


 甲板を走ってきた若年兵の手紙を受け取り、小枝は視線を落とした。


 度重なる戦争の苦労で、疲れの浮かぶ表情で、瞳を手紙の端まで動かしては反対の端に戻し、ゆっくりと読み進めた。


 一緒にいた軍人たちも高い身長を生かして、小柄な小枝の後ろから覗き込むものの、その手紙は日本軍で主流の暗号文で、腕っぷしと度胸はあろうとも、頭脳については小枝頼りの彼らが読み解けるはずもなかった。


 そんな彼らをおいて、小枝の表情は徐々に険しくなっていく。


「兄貴、なんて書かれてんだ?」


 大柄な軍人の一人が聞いた。


 小枝は眉間に皴を寄せ、空を睨みつけた。

 つい数時間前まで晴天だった空を、黒い雲が覆い始めている。


「どうやら、捨て駒にされたようだ」


 手紙には「満州へ集合せよ」と書かれ、座標が示されていた。


 意味が分かず困惑する軍人たちを置いて、小枝は足早に甲板を進んだ。


 後ろから体を乗り出して問いかける軍人たちを片手で制し、小枝は船内に入ると、武器庫を目指す。


 小枝も大日本帝国軍人の端くれ。

 他の軍人のような高潔な忠誠心はなくとも、こんなところで死ぬ気もなかった。

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