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1、敗北

 ゴボッ……ボコボコ……ゴボッ……ボッ……。


 体から酸素が抜けて行く音が鮮明に聞こえた。

 それでいて、歪んだ視界の奥には、ぼんやりと月明かりの灯る水面が見えるだけ。横を見ると、壊れた船のパーツの間を、ゆっくりと体が沈んでいくのが分かった。


 日露戦争の命運を分ける重要な海戦で、東郷元帥が率いられた我ら日本艦隊は、東郷ターン戦法を成功させ、有利に戦闘を進めたにもかかわらず、圧倒的な相手の練度と数を前に敗北した。

 日本艦は確認できただけでも大型船六隻が沈没する大被害を受け、おおよそ、艦隊の再編は不可能。


 大きな損害を受けながらも、意気揚々と撤退していくバルチック艦隊と、炎に包まれ沈んでいく日本艦。


 あぁ、終わったのだと。


 そう実感した。

 一つの船を任された艦長の証である金バッチが、胸元から外れ、独り、水中を漂った。


 体が沈んでいくので、金バッチとはゆっくりと離れていく。


 光の全く届かない海溝へ、ゆっくりと、けれども着実に体が吸い込まれていく。


 ゴボッと息を吐いたのを最後、俺の意識は途切れた。


  ◇◇


 ――起きてください、起きてください。


 何人もの海兵が顔を覗き込んでいた。

 中には、見覚えのある顔もいる。


 肩を掴んで体を揺らされているものの、触られている感覚が無かった。


「ここ……は?」


 言葉を発した途端、ぼんやりとしていた世界が、ピントが合ったかのように明瞭になり、周りの喧騒に気付いた。


 昔、生まれ育った近藤家の天井。

 微かに漂う線香の香り。


 安心したように覗き込む顔、その奥で抱き合って喜ぶ海兵たち。


 良かった、そう小さく呟くかつての部下、古木修平に状況を聞くと、あぁ、と思い出したように周りの喧騒を収めた。


 上半身を起こし、周りを囲む軍人たちを見回す。


 背を伸ばし立った軍人たちの、やや強張った視線がいくつも覗き込んだ。

 古木は改まって背筋を伸ばすと、ハッと威勢の良い返事をした。


「近藤艦長、いえ、近藤海軍元帥、状況を説明いたします。」


「海軍元帥?どういうことだ?」


 その言葉を口にした途端、明らかに周囲の空気が変わった。

 古木は気を付けをした状態でグッと拳を握り、気まずそうに目を背ける軍人もいる。


「説明しろ」


「……」


「海軍元帥は東郷さんのはずだ」


「……」


「おい、どういうこと……まさかッ、東郷さんは……ッ」


 勢いよく立ち上がると、途端、胸に痛みが走った。

 部下の前でこんな姿を見せるわけにはいかないというのに、足が言うことを聞かず、前のめりに倒れてしまう。


 古木が肩を貸そうとしてきた。

 けれど、それを払いのけ、歯がゆいほどゆっくりと立ち上がる。


「東郷さんは……東郷元帥は、どんな最後だった?」


「東郷大元帥は海戦にて戦死。その他、満州に渡っていた軍人の方々は海と陸からロシアの挟み撃ちに会い、その殆どが戦死されました。今は、あなたが海軍のトップです」


「海軍の……トップ」


 ずっしりと体が重くなった。

 俺より一回り身長の高い古木を間合いから睨み上げ、問い詰める。


「今の……今の大日本帝国の戦艦の数は?」


「大型艦二隻、中型艦一隻、小型艦八隻、小さな艦隊を編成するのが関の山です」


「ック……。海兵の数は?」


「練度も高く、まともに運用できるのは三万程度かと」


「……」


 頭の中でセミの鳴き声が木霊した。

 眩暈と合いまみれ、少し空いた障子の奥の縁側の奥に広がる、入道雲が襲ってきそうな青空が揺れた。


「あぁ、近藤元帥!」


 ドサッと、背中に微かな痛みが走った後、部下たちの呼びかける声が遠く聞こえ、頭の中を反響するセミの声がプツリと途切れた。


  ◇◇


 まだセミが鳴き残暑の続く夏の日。

 近藤家邸宅には名だたる将校たちが集まった。


 とはいえ、日露戦争以前、海軍を支配していた軍人たちはそのほとんどが戦死。


 集まったのは、当時、中将クラスから少将クラスで、今では繰り上げで大将、中将となった八人の軍人たちだった。

 近藤が元帥に抜擢されたのは、日露戦争後、生き残った軍人の中で生き残りのいた最上位の地位、中将の中で、もっとも大将に近いとされていたからだ。


 布団の上で上半身を起こした近藤は、和室にひかれた布団を囲うように正座した軍人たちを見渡した。


 八人全員が若年の軍人ではあるものの、ほとんどが軍人の名家の出で、近藤のように一隻の士気を任されていた者もいる。


 髭面、ハゲ頭、鋭い目つき、特徴的な顔ぶれを見回し、近藤は一つ、浅い息を吐いた。


「日露戦争は……」


 近藤が重い口を開き、軍人たちがその言葉に耳を傾ける。


 分厚い雲の狭間から陽光が縁側から和室に差し込み、それまで静まっていたセミたちがミーンと再び声を上げ始めた。


 庭の池で飼っている鯉に餌をあげていた、近藤の妻、京子の元には、セミの声に阻まれ、近藤の通る声と、他の軍人の野太い声が届かなかった。


京子は、元々、自我など殆ど無いような女で、よく言えば良妻、悪く言えば、海軍内で影響力を手に入れたかった近藤 あおい――村上 あおいと、海軍元帥をも選出した近藤家で男が生まれなかったという事情が重なった政略結婚にすぎず、二人の関係は、まさに、政略結婚の典型例だった。


 京子は、色白の肌についた細い目を更に眩しさに細め、空を見上げた。


 ミーン、ミーンと鬱陶しいほどにセミの声が頭の中を巡る。

 それは、まるで、満州を占領し、日本本土への侵攻の準備を着々と進めるロシアの魔の手が近づいて来ている事を示唆しているようだった。


 しかし、揺れる大日本帝国の事情など他所に、京子は無表情な顔をしていた。


  ◇◇


 1905年―九月


 岩のような分厚い手に握られた透き通ったグラスに、冷たい緑茶が注がれ、ガラスの奥に見えていた庭の景色が浮いてきた氷に阻まれた。


 戦争爆風を受けて焼けただれた喉が動き、グラスの中が空になると、カチャッと音をたて、グラスがお盆の奥に置かれる。


 向かい合って座っていた京子は、それを待っていたかのように口を開いた。


「今日は、わざわざご足労いただき、ありがとうございます」


 若干、訛りのある口調だった。

 向かいに座った五十程の軍人は、立派に蓄えたあごひげを撫で「ウム」と答えた。


 鬼鉄平――日露戦争でそんな異名が付いた陸軍大将で、陸軍元帥、乃木のぎ 希典まれすけの下で、自ら最前線に立ち、戦争を指揮していた武藤むとう 鉄平てっぺいという男だ。

 海軍程では無いにせよ、手痛い被害を受けた陸軍の中の、数少ない大将以上の将校の生き残りの一人でもあった。


 京子は、それを知ってなお恐怖が顔に浮かんでいないのか、ただ単に表情に出ないだけなのか、どこを見ているかも分からないような飄々とした様で、鉄平もまた、それが当たり前と思っているようだった。


「今日、来ていただいたのは、他でもない、あおいが海軍元帥になった事についての事です」


「うむ、そうであろうな。いくら大将候補だったとはいえ、中将から一気に元帥への昇進。何かと苦労も多く、至らぬところもあるだろう」


「えぇ、そこで、武藤様に、あおいの後ろ盾となって欲しいのです」


「後ろ盾?海軍には近藤家の出身が数多くいるだろうに、なぜ、また儂を」


「確かに、海軍内に近藤家の者はいますが、皆様、中佐から少将クラスと、後ろ盾としては少し弱く、そこで、どうか、陸軍の覇権を争う鉄平大将のお力添えをお願いいたします」


「なるほどな。――流石、一時期、海軍を牛耳った近藤家の女亭主だ。蒼……いや、蒼元帥によく似ている」


 鉄平は、グラスの中に残った氷の融けた水を飲み干し、身を乗り出し気味に答えた。


「いいだろう。近々、私は陸軍の元帥に就く。その時には蒼元帥と協力し、大日本帝国軍に、武藤・近藤という巨大軍閥を敷こうではないか」


  ◇◇


 その日の夜、近藤家邸宅には夜遅くまで海軍の軍人たちが残っていた。


 縁側から庭先にまでロウソクの光が漏れ、精細な内容までは分からずとも、話声が聞こえる。


 庭の隅にかかった橋では、若い和服の男と、甚平を着た小さな子供が並んでしゃがんでいた。


 和服姿の男は、段々と火の粉の勢いが弱まっていく線香花火を捨て、念入りに下駄で踏み潰した。


「しかし、まさか、生き残るとはねぇ」


 よく通る、蒼に似た色気のある声だった。


 チリン、と風鈴の鳴る音がすると、和服姿の男が立ち上がっていた。

 その音は、男が身に着けている、竜を描いた風鈴の耳飾りの音だった。


 男は、和服の裾から華奢で引き締まった腕を覗かせ、横にいた子供の頭を雑に撫でた。


「なぁ、太郎。お前の父が死ねば、お前が当主に、その結果、実質的に兄の俺が近藤家を継ぐことが出来る。死んだと聞いた時は思わぬ幸運が舞い込んだと思ったが……まさか、生きていたとはねぇ……」


 頭を撫でる手に力が入り、蒼が養子に貰った太郎は、顔を強張らせた。

 今にも泣きだしそうなほどだった。


 それでも、口にできないようすの太郎に、男は腕の筋肉が浮かび上がるほど力を籠めた。


「何をしているのですか」


 カツカツ、と竹下駄を鳴らし、京子が男の前に立った。


 男――龍之介が視線を京子へ向け、京子はそれを睨み返した。


 京子は目線をそのままに、駆け寄って来た太郎の頭を撫でた。


 龍之介は怯えた目を向ける太郎を一瞥し、ハァと小さな溜息をついた。


「京子、蒼がいない間、近藤家を存続させられたのは誰のおかげだ?落ち目の近藤家の財を立て直し、土地を手放さずに済んだのは誰のおかげだ?」


 始まった口論を察したのか、庭の池にいた鯉たちが、縁側から漏れ出る明かりの届かない奥へと優雅に消えていった。


「えぇ、感謝しています。しかし、近藤家の当主は蒼であり、あなたではありません」


「あぁ、そうだ。近藤家の当主は京子、お前ではなく、蒼だ。蒼の口から出た言葉なら兎も角――」


 龍之介は京子の襟筋を掴んで引き寄せ、それでも毅然とした態度を貫く京子の耳元で囁いた。


「女当主ごときが勘違いするなよ。元帥だった父が死んだとはいえ、海軍を支配するのは東郷家だ。これまでも、これからも」


 そう言い残した龍之介の下駄の音が、コツ、コツと暗闇の中へ消えていった。


 京子はその様子を無言で見つめていた。


  ◇◇


 戦艦の周りには濃い霧が立ち込めていた。

 艦隊を組んでいるはずだが、隣の船の大日本帝国旗すら霞み、霧の奥にぼんやりとした輪郭があるだけだった。


 甲板に出た近藤は、艦長の証の金バッチを光らせ、戦闘の準備に追われる海兵たちの間を抜けて船首へ立つと、濃い霧の奥を――ビューという海風の奥を見ようと、スッと目を細めた。


 波は少し荒い。敵影は見えない。


 近藤は胸元から黄金の懐中時計を取り出した。

 時計が指すのはⅤとⅥの間。


 東郷の予想した開戦時刻までは、五分に迫っていた。


 しかし、霧が晴れなければ敵を見つけられず東郷ターンを成功させることは出来ず、この作戦は間違いなく失敗に終わる。


 広大な日本海で敵艦のルートを的確にとらえ、ターンを決めて砲撃する――余りにも無謀な作戦。

 近藤はそれを理解できただけに、死を覚悟した。


 しかし、それと同時、敬拝する東郷の作戦であるため、最後まで戦い抜く覚悟だった。


「近藤艦長、東郷元帥から、砲兵を配備せよとの命令です」


 後ろに駆け寄って来た部下に、近藤は振り返ること無く命令を下した。


「分かった。東郷元帥の言うとおりにしろ。それから――」


 その時。


 大きな砲撃音が鳴り、砲弾が戦艦と戦艦の間に着弾し、大きく船を揺らした。


「ック……」


 船首が上がり、斜めになった甲板の上を積んだ木箱や大砲が滑る。


 更に、二発、三発と砲撃があって大波が上がった。


「て、敵艦隊、出没」


 甲板で声が上がった。

 悲鳴はなくとも、慌ただしく命令を飛ばす声と、声にならない緊張感が場を支配する。


 近藤は、砲弾が開いた霧と霧の隙間に、世界最強と恐れられるロシアの艦隊――バルチック艦隊の姿を見た。


「僅かに予想がずれたか……。総員、戦闘準備。他の戦艦と連絡を取りつつ、艦隊を一直線に並べろ!」


  敵軍は目の前――。

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