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白票は害悪じゃない

作者: 香久山ルイ

あくまで個人の見解です。

「選挙に行きましょう」

「投票は国民の権利であり、義務です」

「この国をよりよくするために」

 学生の頃、耳にタコができるほど聞いた言葉だ。

 俺は選挙が嫌いだ。家がたまたまスーパーの真ん前で、小学生の頃から家の前は選挙演説の場所だった。興味もない上に、まだ選挙権を持っているわけでもない身からすれば、選挙演説なんて同じことをぐるぐるぐるぐる繰り返す騒音でしかなかった。

 いつぞや昼のお茶の間を賑わした騒音おばさんと何の違いがあるのだろう。騒音おばさんは地声と布団はたき。選挙演説はマイクを使う。選挙カーは常にスピーカーで候補者の名前を繰り返す。騒音おばさんが非難されて、選挙演説が非難されないのは何故なのか。

 俺はやがて選挙と共に様々な言葉を学ぶわけだが、俺にとって選挙は「公害」だった。公共に認められている公害。なんと質の悪い。騒音おばさんの方が百倍ましだと思うくらいだ。

 まあ、騒音おばさんもいたら困るけれど。選挙と騒音おばさんを五十歩百歩と思うくらいの思考回路が俺の中ではできていた。

 選挙カーで演説しながら町中を練り歩くのは午後八時までという決まりがあるらしい。だが、それを守らない輩もいた。守らない輩ばかりのときもあった。俺は勉強をするのが好きで、宿題をしていても、選挙カーが通ると気が散った。夜早く寝なさいと言われても、ルールを守らない候補者が五月蝿くてなかなか寝つけなかった。

 そういう生活になったために、高校生になる頃には「選挙は害悪」という認識になった。俺が生きてきた平成という時代は様々な施策をし、成功を納めてきた総理大臣がたくさんいた。選挙によって選ばれてきた人がもたらしたものといえばそうなのだろう。別にそれらに文句はない。恩恵も受けているし。

 けれど今はどうだ? 戦争に向けて舵を切ろうとし、表現の自由の規制。別に古き善き日本であってほしいとは思わないが、明らかに一定数から反感を買う政策を掲げているやつらが幅を利かせている。そんなやつらに入れる票はない。

 では別の党に入れたらいいというが、他の党の人間は問題を起こしたことはあっても目立った活躍もない。果てには新興宗教だったりする。それは今の与党より信じる要素がないだろう。

 今時の若者は政治に関心がない、選挙に行かないと大人たちは宣う。確かに関心はないかもしれない。選挙に行かないかもしれない。だが、自分のために権利を行使したいと思うからこそ、選挙に行けない、とは何故思わないのだろうか。自分の思想に近い考えの候補者、政党がない場合、選挙権をどう使えばいいのか。それは学校でも社会でも教えてもらえない。

 選挙権は義務である前に権利である。選択肢を与えられて、その中から自分の意に合うものを選ぶ権利。けれど並べられた選択肢の中に、自分の意に沿うものがなかったら? それどころかどれも自分の権利を侵害するような許しがたい選択肢だったなら?

 そうして選び取ってしまうのが「投票放棄」であると、何故考えないのだろう。確かに、権利を行使しないことに利益はない。だが同時に、自分に利益のないことに権利を行使しても、利益にならないのは同じである。むしろ不利益にすらなり得るのなら、権利の放棄を真っ先に選ぶのは当然の判断だと俺は思う。

 飲みたくて淹れたお茶が時間が経って傷んだために捨てることになるのとそう違いはないはずだ。傷んだお茶を飲めば、どんなに香りがよくとも腹を壊すのだから。

 大人たちはつまり、傷んだお茶を捨てずに飲めと言っているのだ。俺視点からすると。結果のわかりきったことを受け入れない意思があるのは当然ではないか。腹を痛めないで済むのなら、お茶を飲まないのは当たり前ではないのか。

 ただまあ、せっかく与えられた権利を一ミリも使わずに捨てるというのは勿体ない気もする。茶葉が傷んでいるわけでないのなら、お茶がもう一度淹れられるのだから、新しいのを淹れて飲めばいい。

 新しいお茶を選挙権の生かし方として考えるのなら、票の使い方を考えればいいのではないだろうか。

 俺なりに考えた、誰にも投票せずに投票権を使う方法。それは誰でもできるし、考えて実践した人もいるかもしれない。

 それが「白票」だ。何も書かずに投票用紙を箱に入れる。とても簡単なことだ。

 この行為自体は社会人として白い目で見られるかもしれないが、俺は一つの手段だと思っている。

 白票は当然、無効票となる。他にも、候補者の名前を複数書いたり、落書きをしたり、関係のない内容を書いた投票用紙は無効票となる。

 無効票のよくないところは結果に影響が出ないところだろう。そして、開票する選挙管理委員たちに対して、単純に迷惑であるということもある。開票するのは機械ではなく人で、各得票数を数えるのも人である。その労苦を考えると、無効票は嫌がらせにしか見えないだろう。

 それなら、何故俺は白票で投票するのか。それは「投票率」にある。

 白票であれ、なんであれ、「選挙に参加した」事実は変わらない。つまり、白票も投票率のうちに数えられるわけである。

 若者が参加しないから低い低いと言われ続ける投票率、いつまでも好き勝手言わせていていいのだろうか。

 それだったら俺はこう考える。白票はどの候補者にもどの政党にも賛同できないという意思表示だ、と。

 そうして白票が多くなっていけば、政府はそれを無視できないのではないだろうか。白票、もしくは無効票が何割かを占めるようになったら、何かに気づくのではないだろうか。

 もちろん、入れたい政党、候補者がいるのならそこに入れればいい。ただ、消去法で選択肢が消えたからといって、ただ捨てるには勿体ない、それが選挙権だと思う。白票でも意思表示になると思った一例を語らせていただいた。

 本当は信じられる政党があればいいのだけれど。

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