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短編

当たり前のことを、言葉による具体化にして検討する。(途中。走り書き。主観あり)

作者: zig

 なぜ、書けないのか。


 原因の分解を試みよう。


 まず、「書けない」とはどういうことか。

 逆に考えよう。「書けた」とは、どういう状態を示すのか?


 「書けた」=「描きたい内容を、最初から最後まで描いた状態」


 出版であれば本にする際の制限があるかもしれない。

 webに投稿する場合なら、読まれる文量というものがあるのかもしれない。

 しかし今回は出版を考えない。

 そして、個々人によって異なる最適な文章量も考えない。

 であれば。

 「描きたい内容を、最初から最後まで描いた状態」

 には、

 「文字数は関係ない」。


 次に、「描きたい内容」とは何か。

 「描きたい内容」とは、小説の場合、物語のことだ。

 

 代替すると、「物語を、最初から最後まで描いた状態」となる。

 

 「物語を、最初から最後まで描いた状態」は、完成度の高低を考えない。

 推敲前でも推敲後でも同一のものと見なす。

 推敲前と推敲後での違いは、質の違い。

 質の違いとは、言葉の選択、時系列の整理、挿入あるいは削除する演出など、あらゆる視点から見直した結果として、「物語を、最初から最後まで描いた状態」が読者へ与える影響の差を示す。

 「質が向上した」と見なす場合は、推敲する前と後とで、読者側の理解がより確かになる時のこと。すなわち、「解像度が上がった時」。

 

 解像度の違いは物語の骨子に影響しない、とする。

 解像度の向上は、他人に理解してもらえるかどうか、という点に置いて最適解を追い求めた結果であり、もとの骨子を変更しない限り根本はそのままであり続けると考える。

 推敲前後において、反復する影響により形が変化する場合を今は考えない。


 「描きたい内容を、最初から最後まで描いた状態」=「書けた」とするならば。


 「物語を、最初から最後まで描いた状態」において、「解像度の向上、つまり推敲は絶対に必要とは言えない」らしい。

 つまり、自他からの評価、伝わり具合を考えないのであれば、推敲はしなくていい。

 質の向上を目指さないのであれば、推敲は+αの範疇であり、それは努力のカテゴリーに入る。

 

 では、「書けない」状態に話を戻そう。

 「書けない」とは何か。


 「書けない」とは、「物語を、最初から最後まで描いた状態」に行きつかないということか?


 いや、どうも違うらしい。

 自分の言う「書けない」とは、「物語を、最初から最後まで描いた状態」を指していない。

 なるほど。では何をもって「書けない」と言っているのか。

 

 なぜ文字を数千書いては消し、また書いては消すを繰り返すのか。

 文字を消す、という行為はなぜ起きるのか?


 前提。

 文字は書ける(打てる)。つまり最低限の出力に関しては問題ない。

 日本語を扱う能力について、間違っているかどうかは判断が難しいので保留にする。


 消す、という行為に注目してみよう。

 消すとは、働きかける行為だ。

 働きかける行為と言ってしまうのは、文字列の連なりを理解した脳が、『これは適切でない』という判断のもと、削除して新たな文字列を生成しようとする、一連の流れによって引き起こされる行動だからである。

 簡単に言い換えると、『消したい』と思うから「消す」。

 逆に言えば、『消したい』と思わなければ、「残す」。


 ではなぜ、『消したい』と思うのか? 『これは適切ではない』と判断するのか?

 算数、数学なら話は簡単だ。解であるものは適切であり、解ではないものは適切ではない。解であるならば「残す」、解ではないのならば「消す」。

 しかし小説には正解がない。明確な判断基準がない。

 では、一体何を持って『これは適切ではない』と判断しているのか?


 仮定1。「この文章は、物語を語る上で適切ではない」。

 この判断は、「物語を、最初から最後まで描いた状態」というまとまりを見るまでは下せない。


 仮定2。「この文章では、惹き込まれない」。

 この判断は、「物語を、最初から最後まで描いた状態」を見なくても下せる。


 他の仮定が思いつかないので、今は省略。


 仮定2。「この文章では、惹き込まれない」。

 惹き込まれるというのは、解が存在しない。ゆえに、各人が持ち得る感覚の問題になる。

 自分以外の感覚を持つということは至難の業である。

 他人の感覚を再現できないのであれば、唯一、自分の感覚に寄るしかない。

 これは、ある特定の読者層を想像した場合にも矛盾しない。自分の感覚という円の中に、仮想で相手の感覚を作り出すイメージ(『あの人の為に作る』の「あの人」というのは、自分の感覚という土台の上に築き上げる架空の対象のこと)。

 惹き込まれるか、そうでないか、判断基準は自分の感覚になる。

 自分の感覚がYesといえば「残る」。Noと言えば「消す」。

 では、YesとNoの境界線はどこか?


 「自分の感覚」がすべての判断基準である。

 では、「自分の感覚」というものは、何に拠って存在する?


 価値観。嗜好。読解力。読了していくリズム。文章に影響された想像力。性癖。

 これらが正しいかどうか、全てであるかは一旦置いておくとして……。

 

 では、自分以外まで範囲を広げよう。

 

 小説家になろうでは、読者の評価が視覚化できる。

 ポイント数。ブックマーク数。etc。

 承認欲求はフィードバックによって満たされる。

 創作が評価されるということは、意識、無意識にかかわらず、何かしらと比較された結果であると言える。

 今まで蓄積してきた経験から成り立つ価値観。

 価値観のバーを越えるごとに、対象の作品に対する評価は当然変化する。

 作者個人では操れない外部要素――――不特定多数からのフィードバック――――は、多かれ少なかれ作者の意識に影響を与える。程度の高低はあろうが、承認欲求に刺激を与える。

 承認欲求に対し、フィードバックの量が大きければ快感。逆に少なければ落胆。

 快感を脳は欲す。学習能力によって、次のご褒美を期待する。

 ご褒美の期待。では、ご褒美を得る為には何が必要か。不特定多数のフィードバックを得るためには、彼ら顔も見えない人達の価値観に揺さぶりをかける作品を作る必要がある。

 揺さぶるためには、質の向上が不可欠である。質の向上とは、「推敲する前と後とで、読者側の理解がより確かになる」=「解像度が上がった時」。


 「質の向上」=「解像度が上がった時」=「努力の範疇」

 「解像度が上がった時」=「努力の範疇」=「解像度の向上、つまり推敲は絶対に必要とは言えない」

 「物語を、最初から最後まで描いた状態」において、「解像度の向上、つまり推敲は絶対に必要とは言えない」。



  10.4 追記


 昨日、上記を書いた上で思ったこと。


 ・自分の感覚でしか作れないのなら、自分が良いと思ったことを出すしかない

  (これを描けば受けるだろうから描く、だと、心が入らない。自分が良いと思ったことを描く)

 

 ・物語を書き切る練習として、あらすじを書いてはどうか?

  もしくは、他の小説作品などをテキストにして、あらすじにまとめる練習はどうか?

 

 ・フィードバックが欲しいから質を上げる、という点に関して。

  間違ってはいないと思うけれど、それだけだと寂しい。

  それに質を上げる努力をしたからといって、評価は必ずしも向上するとは限らない。

 

  『苦しんだ分、評価が欲しい!』では、悲しい。

  苦しんだ分の見返りとして評価を貰えるとは、約束されない。

  そもそもの話、作り始めた頃はどうだったか。一作も出した実績がなく、他人の評価なんて全くない。あるのは可能性だけ。ということは、評価が欲しい、というのは、ある程度創作を続けたが故の悩みではないか?

  (承認が欲しいという動機が初めからあった人ではなく、純粋に作りたいという動機がきっかけの人)

 

  では、初心に戻ったとして。評価を気にする以前は、一体何を考えていたか?

  もっと根源的な衝動があったに違いない。通用するかどうかでもいいし、表現の楽しさ、自分が何かを作り出せる存在である実感、思っていたよりもしっかりしたものが出来たときの喜び、世に出せるという開拓感。

  幼い子供に画用紙を与えれば自由に描いてくれるのに、大人になると指示を貰えないと白紙を汚せないのはなぜか? へたくそであればいいという岡本太郎氏の言葉に感じるところはないか?


 質を上げる、というのは、他人に寄るところではなくて、むしろもっと自分自身と向き合ったところ、自分の描いた文章と正面から見つめ合うというか、掘り進めた洞窟の暗闇の中で、他人のことなど目もくれず、ただひたすらに黙々と手を動かして深部へ向かうことじゃないのか?


 それによって出来た『何か』を見て、反応が生まれる。生まれないかもしれないけど、生まれるかもしれない。

 評価が先にあるんじゃなくて、作品が先にあるはずなんだ。

 だから最初から評価が欲しいと思ってしまえば、よほどの才能が無い限り答えを見つけ出すことは至難の業だ。

 自己完結。その上でコミュニティ。……だろうか?

 誰かのために、も美しいのだが、他者の反応を当てにすることを全てにすることは自分の足元が崩れる。両方保ち、バランスを取る。


 ・そもそも質とはなにか?

  ジャンル、作者によっても文体が異なる。

  言葉が豊富であればよいという単純なものでもないのだろう。

  質とは、あってないようなものかもしれない。

  みんなが歌える国民的アニメ主題歌は、言葉は難しいだろうか? 答えはNo。

  それでも質が低いかといえば、それもNoだろう。つまり、言葉は難しくなくてもいい。

  むしろ、平凡と思える言葉は、誰しもが理解に易しい可能性を秘めている。

  だから、普段使うような言葉でも、十分に使いこなせれば素晴らしい可能性があるではないか。

  もちろん、難しい言葉は雰囲気が出るので、盛り上げにはもってこいだと思う。

  また、描写がくどくて読めない場合もあると思う。

  そこの判断は今は難しい。


 ・作品を作る際の提案

  キーワードを掲げて、それについて思いを巡らせてみる。漠然と考えるよりは道筋が立つかもしれない。

  例えば。吸血鬼の女の子が主人公の物語を描いているが、その小説に見合う、主題歌のような詩をつくりたいとする。これだけでも相当絞れる。気がする。

  あえて締め切りを設けてもいいかもしれない。時間は気持ちを焦らせる。

  まぁ、これでかけたら苦労しないかも。


 ・インプット、アウトプットについて

  詰まったら他の創作を見る。という話。

  しかしどうも見ているだけでは繋がらないらしい。

  見るだけではなく、何らかの付加価値をつける必要がありそうで、今はそれが「観察」ではないかと考えている。「見る」ではなく、「観る」。「聞く」ではなく、「聴く」というように。

  例えば映画を見る。ただ見るだけなら、なにかを考えながらぼぅっと画面を捉えていてもいいし、なんなら携帯をいじりつつチラチラと視線を配ることも変わらない。

  では、注意して「観る」。そして疑問、過程を得る。するととっかかりが出来て、解決するためにアンテナが立つ。この意識の活動が、インプットを能動的な行為にしてくれるのではないか……と、思う。効果がいかほどかは未だ不明であるが。

  さて、加えたいのが、「惚れ込む」という意識。

  これが最近弱いのだけれど、「これだ!」という、自分が好きであるという感情の揺れを強く認識して、更に熱中していくということが、大切なのかもしれないという話。


  当然のようにしていることを、いつの間にか置き去りにしていることが多い。

  備忘録も兼ねて、今率直な考えを追記しておきたい。

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