♞5♞ オトモダチ……な。
店に入るまではギリギリ夕方と言っても良かった空は、いまや夜の闇に白い砂粒のような星を撒き、輪郭の滲んだ月が明日の天気を物語っていた。
いつの間にか外にまで侵食したらしい店の客席に、まだまだ飲むつもりなのだろう労働階級者達がエールを煽って騒いでいる。その隣をすり抜けながら伸びをした女がこちらを振り向いて笑う。
「ふー……もうお腹一杯だわ。今日のお店も美味しかったでしょう?」
「だな。安月給の財布にも優しいし、酒の種類もなかなか良かったぜ」
「うふふ、それは良かったわ」
真っ直ぐな栗色の髪と少しくすんだ緑の瞳。リリア・ドルマン子爵令嬢。アメリア嬢のお眼鏡に敵うだけあって、相当に変わったご令嬢だ。
彼女は再び前を向くと、頬にえくぼができる笑みを浮かべたまま歩き出す。オレはその表情をちらりと見てから隣に並んで歩く。
初回の顔合わせは洒落たレストランで昼間からワインを三本。婚約の話は結局あの場で断ったものの、彼女から『それなら友人になりましょう』と提案され、流石に立て続けに断ることも躊躇われて頷いちまった。
また会いたいと笑う彼女を迎えの馬車に押し込んだときは冗談かと思っていたが、仕事中に街中で出会った際に『仕事上がりに飲みましょうよ』と誘われ、二度目の顔合わせは下町の居酒屋。
三度目も、四度目も、似たような形で捕まっては仕事上がりに飲みに行こうと誘われて。六度目にもなればお互いだいぶ気安くなってきて、とんだじゃじゃ馬の不良娘だと苦い顔で言ってやったら、彼女は『貴男こそ見た目によらず紳士で素敵よ』とやり返された。
一度目以外は全部仕事上がりの帰り道。自惚れられるような面じゃないのは分かっているが、どうにも待ち伏せされている。ちなみに身綺麗にしていたのはあの日だけで、今日に至るまでオレは常のように着崩した制服と無精ヒゲを生やした暑苦しい格好だ。
物珍しさからの興味だとしてもここまで懐かれるようなことは何もしていないのに、彼女は飽きもせずにやって来ては飲みに誘ってくる。
不思議と一緒に飲む間も会話が途切れることはなく、途切れたとしても居心地が悪く感じることもない。ぬるま湯に浸かったみたいなこの関係性は、何となくオレの日常の中に馴染んだ。
――が、いくらなんでも頻繁すぎだと思う。子爵家の次女で、下町で働くことを家族が許しているとはいえ、未婚の女が夜間に男と飲み歩くのは醜聞になる。加えてやっぱりオレには勿体ない相手だ。
隊長には一応友人関係になったと報告したが、オレの顔を見て『そうか』と言った後は特に何も詮索してこない。放任主義にもほどがあるだろう。それともあれが既婚者の余裕か? 絶対まだ童○のくせしやがって……。
そんなオレのみっともない葛藤を知らない彼女は、上機嫌のままこちらを振り向いて見上げてくると、微笑んだところしか見たことのない唇を開く。
「次はどこに誘おうかしら。ダルク様は何か食べたいものは――、」
「あー……待ってくれリリア嬢、そのことなんだがな……」
「決めた。次は串焼きの美味しいお店にしましょう」
「いや、だから待て、そうじゃない」
「大丈夫よ、勿論他の食事もあるから。ついでにエールの種類も多いのですって。教え子の父親がオススメだと言っていたわ」
オレの言葉を遮る声は朗らかなのに、頑なにこちらを見ようとしない彼女に軽く苛立ち、舌打ちをしたのが不味かった。思いのほか大きな音が出たことで彼女の肩がビクリと跳ねる。
「ああ……ほら、な。オレはお育ちが悪ぃんだ。あんたと飲むのは楽しいけどよ、舌打ち一つでビビるならこれから先もっつーのは無理だろ」
我ながら最悪の言い分だと分かっている。ただの八つ当たりだ。しかしお上品な対応ができないオレとの実のない時間をいくら過ごしても、それは女の咲ける時間の無駄にしかならんことは、そろそろ理解して欲しかった。
「……帰ります」
「おう。それなら送って――、」
「結構です。そこの辻で馬車を拾いますので」
ピンと張り詰めたような声音に反応が遅れた。これまで聞いたことのない声音が、オレと彼女の間に一本の線を引いた瞬間だった。
「ダルク様、いままでご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。つい年甲斐もなくはしゃいでいたようですわ。今後はつきまといませんので、どうかお許し下さいませ」
「え……いや、別にそこまで急にどうこうしろって話じゃ……」
「いいえ。けじめは大切ですから。いつまでも貴男の優しさに甘え続けてしまったのはわたくしの落ち度です。レイモンド様と奥方様には後日当家からお断りの手紙を送らせて頂きますわ。それでは、ご機嫌よう」
ヒールのない靴で美しい一礼をとった彼女は、えくぼのできない微笑みを張り付け、一度もこちらを振り返らないまま夜の辻馬車乗り場に足早に歩き去っていく。
一人その場に残ったオレを見て、数人の酔っぱらいが「フラれたのかー?」「そういうときは、酒だ! こっちで飲もうぜ」と絡んできたが、ジワジワと何かが背中を這い上がってくる。結局飲み直す気分にもなれずにその足で寮に帰った。
暗がりの室内の壁に張った暦にふと目をやれば、彼女がオレの仕事が早く終わる日を待ち伏せていたのだと気付いて苦い気分になる。
「はんっ、これで良かったんじゃねぇか。明日からはまた自由に飲んで、自由にバカをやれるんだ」
らしくもない独り言で景気をつけてベッド脇の安酒を一人で煽ったが、喉に染みるだけで。さっきまでの酒と何が違うのか、旨くも何ともなかった。




