*17* どうか、堕ちて来ないで。
月光が淡く輝く幻想的な夜。
恋人達の為にあるような静かな夜。
『うふ、うふふふふふふふ……ふふふ、あは、あははははははははは!!!』
そんな空に向かい、私は淑女の心得なんてかなぐり捨てて、馬鹿みたいに浮かれた笑いを高らかに放った。
誰にも聞こえないからではなく、誰かに聞こえていたってきっと、今夜の私はお構いなしに笑ったに違いない。だって、天にも昇る気持ちというものを、生まれて初めて本気で感じた。手に入れた。
あの瞬間に召されていないことが不思議でならないほど、死への覚悟は出来ていたのに、レースのカーテンのように頼りなく透ける身体は未だ健在だ。
『やった! やったわ! やってやった! 凄いわ、私!!』
今なら獲物を追うツバメより早く空を駆けられる気がする。それどころか猛禽類最速のハヤブサだって追い越せる気がした。
『やっと、やっと、あの彼が私を見てくれた!! 選んでくれた!!!』
目覚めた直後の発言には心底驚いたし、隠れて読んでた愛読書の嘘を真に受けたみたいで恥ずかしかったけど……結果的に新しい一面を大量に仕入れられたから、ここは良しとしよう。
下手な言い逃れの為に金縛りを解いて影絵まで披露したのに、ほとんど言い当てられないで眉間に皺を刻む彼とか。
鳩が蛾に見えて、他は全部犬に見えるだなんて不貞腐れた表情で言う彼とか。
ウサギは全然で、蟹はハサミもないのに意外とそのままでも分かる彼とか。
武骨でかさついて見えるあの大きな手で、懸命に私の手の形を素直に真似てくれる生真面目な彼とか。
……もー、可愛くて尊くてしんどみが溢れた。
それに最後はあの手が私を捉えようと伸ばされたのだ。汚いこの私を捉える為に、あの綺麗な彼の手が。触れたくて、触れられたくて仕方なかったあの手が。
『ふ、ふふ、ふふふふ……死にかけなのに、最っ高の気分だわ!!』
ただね? せっかく嫉妬心を殺して気立ての良い子達を紹介してあげたのに、同情と愛情の見分けもつけられないで私の苦労を水泡に帰そうとするなんて、度しがたいお人好しだとは思ったわ。不満はそこだけね。
『ふー……さてと、ゴミ溜めみたいな人生の中で最高の気分も味わえたことだし』
ひとしきり叫んで笑って気分も安定してきたら、段々と冷静に次にしなければならない物事が分かってきた。若干名残惜しくはあるけれど、そろそろ頃合いというところだ。
『そろそろお父様が殺し損ねた私の息の根を止めなくちゃね』
***
――……と簡単には言ったものの。
再び舞い戻った伏魔殿の牢獄を少し離れた場所から眺めていたら、早速難問にぶち当たってしまった。
『自然死を待つならまだしも、本体の形がなくなるくらい完全に葬ろうと思ったら、やっぱり協力者の手が必要なのよね。どうしようかしら』
あんなに生真面目な彼が私の本体を見つけたりしたら、さっきの言葉が撤回されてしまう。そんなのは絶対に嫌だ。どうせ地獄に堕ちるならせめて天国にもなさそうな宝物を一つ持参したいもの。
けれど協力者を探すとして少なくとも、私を認識出来る霊感があって、私にただならない殺意を持っていて、罪悪感なく計画を実行出来る人間でないと駄目だ。この三点を満たせる人物がそうそう街中を歩いているだろうか?
そもそも殺害依頼をあっさり引き受ける人間が出歩けていたら、治安がまずいことになっていそうだし――。
「うおっ、」
『え?』
「な、誰だあんた、何で浮いて……あ?」
『あら……お前、私の姿が見えるの?』
いきなり一つ目の条件を満たせる奴がいたわ。今夜の私ったらとっても引きが強いわね。何でこんな時間帯に庭の茂みに隠れるような真似をしてるのか知らないけど、どう考えても千載一遇の好機到来ってやつでしょう、これ。
暗くて髪や瞳の色はよく見えないけれど、やや厳つい男は見た目の割に早く冷静さを取り戻したらしく、ジッとこちらを探るような目で見つめる。
「その顔……隊長が四日も寝込んでるのは、あんたの仕業か」
嘘でしょう、もう二つ目も満たせた!? 名前も顔も知らない男だけど、見込みの塊じゃない?
『ふぅん、そんな風に思われてるのね?』
「しらばっくれるな、この毒婦め。生前唯一あんたの思い通りにならなかった男にとり憑いて、殺そうってそういう魂胆だろう」
『とり憑くだなんて大袈裟ね。確かにさっきまで同衾したりしてたけど。あの人、お前と違って霊感が欠片もないのよ。この姿になってからずぅっと一緒にいるのに、私の姿なんてちっとも見えないみたい。飽きたからこうして散歩をしてたの』
「貴様……!」
ほらほらほら、もう絶対この思い込みの激しい男を協力者にするしかないわよ! しかも今の発言だと、彼の直属の部下ってことよね? 何なのこの凄い偶然。神様ってば今夜は大盤振る舞いじゃない。
――それにしても。
『毒婦ねぇ……』
「魔女の方がお好みかよ」
『別にどちらでも構わなくてよ? お前のような下郎に名を呼ばれるくらいなら、お前達のつけた芸も品もない渾名の方がマシだわ』
彼ではない凡百の輩からどう呼ばれようが興味もない。彼等や彼女等が毒虫として扱うように、私も彼等をその辺の壁の染みくらいに思っている。お互い様ね。
「この……屑が」
『ふふ、良い目ね。ゾクゾクしちゃう。流石はあの人の部下だわ。正義感に漲って私を殺したがってる。私ね、今とっても機嫌が良いの。だから愚かで下賎なお前の望みを叶えてあげないこともないわ』
「何だと?」
『お前、手を組みましょう。私もこの生活に飽き始めていたところだし、このままだとお前の言うように、あの人を殺してしまうわ』
まぁ大嘘だけど。この私にそんなこと出来るわけがないわ。清い身なら彼の守護精霊になってあげたいくらいだもの。
婚約者候補をせっかく選んだのだから、誰と結婚するかは知りたかったけど、最終的に結ばれるのが私でなければそれでいい。勘違いで彼の経歴に傷がつく前で本当に良かった。
「何が望みだ、魔女」
『火よ』
「火?」
『そ。魔女を殺す、浄化の火よ』
不審な者を見る目を向ける男にうっそりと笑ってそう言うと、相手は「イカれてやがる」と悪態をついた。でもそんなことはどうでもいい。どうせこの男とは生きた状態で再会することもないのだから。
それよりも私は燃え尽きたいのだ。
出来ることならこの地上に一片の塵も残さずに。
『私ね、綺麗になりたいの』
たとえ真っ白な一握の灰にはなれなくても。
どれだけ穢れた人間でも、一皮剥けば真っ白な骸骨。
こんなに穢れた私でも、それくらいならなれるわよね?