★16★ 自問と、自答と、自覚と。
二十一日目の朝八時。
ここしばらく感じたことがない爽快な目覚めと、スッキリとした頭。まるで思考の妨げになる澱が全部流れ出てしまったような気分だ。
考えるまでもなく蓄積していた疲れが一気に出たのだろう。身体がやけに軋むと思ったら、十数年ぶりに意識が朦朧とするほどの高熱が出た。
体調管理には常々気を付けていたはずなのに、部下と揉めた翌日に倒れるとはとんだ体たらくだ。しかし朧気な記憶ではあるものの、あの日の深夜十二時にも彼女は勝手知ったる気安さで現れた。
彼女は俺の体調をすぐに察したのか、いつものように金縛りをかけることをしなかった。心配そうに何かを言っていた気もするが、そこは熱のせいかあやふやだ。
だが帰ろうとした彼女にこちらから手を伸ばしたことは、たぶん間違いない。何故かそうしたかった。そうすることが最善に思えた。
一度は困った表情を浮かべて身を捩った彼女に、再度自分から手を伸ばしたことも憶えている。実体のない彼女に伸ばした手は当然の如く空を切ったが、それでも貫いた小さな手の温もりを一瞬感じられたような気がした。
どうして……もっと早く彼女の肉体があるうちに話を聞いて、手を握ろうとしなかったのだろうかと。己の視野と心の狭さに無性に腹が立った。
霞む視界の中で彼女は涙こそ流すことはなかったものの、眇められた紫水晶の瞳は何かを堪えるように潤み、そんな表情を浮かべる彼女に何もしてやれない歯痒さに胸が痛んだ。
熱のせいで強制的に眠りにつかせようとする肉体に抗うも、理性も本能も本体の機能に合わせて鈍り、頭がぐらつき始めた頃だった。
『“愛してるわ”』
ふとそれまで何かを優しく話しかけてくれていた彼女の唇から、そんな言葉が零れたのは。溶け落ちそうだった意識の中で、それはやけに鮮明に耳に届いた。直後に体調不良の熱とは違うものが体内から沸き上がって息苦しさを感じる。
『“愛してる”』
そう動揺と息苦しさから咄嗟に目蓋を閉じた耳に、さらなる追い討ちがかかったものの、不思議と心が軽くなったのを憶えている。
「今夜は会いに来てくれると良いんだが……」
執事に目を通しておこうと思っていた書類を取り上げられ、医者の言葉で拘束されたベッドの上、思わずそんな言葉が口をついて零れた。
***
二十一日目の深夜十二時。
『おはよう、私の可愛いチェリー』
四日ぶりに見る彼女は、何故かいつものように距離感のおかしな登場の仕方をせず、ごく一般的な令嬢のような距離感を保って浮いていた。身体は……当然のように金縛りにあっている。
「ああ……おはようアメリア。チェリーは止めろ」
その様子に少し違和感を持つこと自体、彼女に毒されていることのように思えるが、何となく不満を感じている自分がいる。今夜はこういうはっきりとしない感情に決着をつけたい。
『せっかく会いに来たのに、難しい顔をしてどうしたの?』
いつもの彼女なら、からかう時には額が触れそうな距離まで近付いてくる。それなのに今夜はその気配もない。ただユラユラと儚げに宙に漂って、こちらを見下ろして微笑むばかりだ。
余裕にも諦観にも見えるその笑みに心が波立つ。気が付けばそんな彼女を見上げて「君は俺を愛しているのか?」と問いかけていた。
無意識に口から飛び出した自身の声と自惚れた発言に内心後悔したものの、見上げた先に浮かんでいた彼女の方は目に見えて狼狽えている。しかしグルグルとその場で意味もなく回ったかと思うと、次の瞬間には顔をあげて社交場で浮かべていた微笑を張り付けていた。
『まぁ……可哀想に。貴男まだ熱があるのね。今夜はもう帰るわ』
「医者からは回復したと言われたが」
『ふふヤブ医者だったのね次回からは他のお医者様を呼ぶと良いわそれじゃあ』
「俺も考えていたことがある」
『あ、えな、な……何をっ?』
段々と鍍金が剥がれ始めた“社交界の黒真珠”の姿に、自惚れた言葉を吐いたことを恥じていたこちらの方が徐々に落ち着いてくる。
「俺も君を婚約者として、愛しく思い始めていると思う」
ああ……何だ、そうか。
あの夜感じた息苦しさの正体は、突き詰めてしまえばそれだけのことだった。俺は彼女に惹かれ始めているのだ。諸々の感情も全て認めてしまえば腑に落ちる。
けれどずっとかかっていた靄が晴れたような気分を味わうこちらとは違い、彼女の方は上下左右に忙しなく漂っていた。
そんな彼女の準備が整うのを待っていると、意を決したらしい彼女はいきなり両手を親指だけで繋いだ状態で胸の前に構え、唇を開く。
『貴男……これが何に見える?』
「蛾か?」
それもどう見ても毒蛾の大きさだ。しかし俺の答えが気に入らなかったのか、彼女は首をゆっくりと横に振ると、急にこちらの金縛りを解いた。
『ああ、そうね、そういう人だったわね。ベッドから起きられるようだったら、そこのランプを持って壁の方へ向けて。貴男はそのままソファーに座って私の手の形を真似てから、その影が壁に映るようにしてみて頂戴』
言われるまま訳も分からず指示通りに動き、彼女の手の形を真似て壁に向かって構えた。大きな影が暗がりの中で唯一明るく照らされた壁に映り込む。
「こうか?」
『ええ、それで良いわ。今度は何に見える?』
「大きな蛾だな」
『……鳩よ』
最初の直感に嘘をつけずにもう一度答えたが、駄目なものは駄目らしい。彼女はすぐに手の形を変えて『じゃあ、これは?』と問う。真似ろということだろう。素直に手の形を真似て壁に投影する。
「犬だ」
『……狐よ』
呆れた調子の声が降ってきて、また『それじゃあ、これは?』と違うお題を出される。これも真似て壁に投影してみたが――。
「犬だな」
『正解。それじゃあ、これは?』
初めての正解の余韻に浸る間もなく出された次のお題を真似てみるも、先程真似たものとそこまでの差を感じない。
「……犬だな」
『狼よ。貴男もしかして影絵遊びをしたことがないの?』
「ない。それに犬科が多すぎるだろう。見分けがつかん」
『確かに言われてみれば猫科の影絵って見ないわね。それじゃあ次は――、』
澄ました顔で手を組み直し始めた彼女について、少し前から薄々感じていたことがある。彼女は自分から他人を煙に巻くことについては巧みだが、他人から思ってもみない方向に話の舵を切られることに弱い。
つまるところ、話の逸らし方が壊滅的に下手だった。彼女に比べれば、恐らくその辺の子供の言い訳の方がまだ上手い。
「君の影絵の手持数も興味があるが、話を続けさせてくれないか」
『これは兎で、これは蟹よ』
「兎は分からんが、蟹はハサミもないのに、意外とそのままでも分かるな」
『あ……ええと……そうでしょう?』
パッと俯きがちだった顔を上げて嬉しそうにそう言う姿に、一瞬魅入る。下手な話題の誘導よりも数倍動揺させられた。地味に悔しい。
「そろそろ本題に戻らせてくれ。俺は君を当初の予定通り妻として迎えたい。その為にもあの日の事件の真相を――、」
気が急いていた。意識のない肉体から弾かれた彼女が、いったいいつまでこうしていられるのかが分からない。そんな焦りが、こちらを信じて金縛りを解いた彼女に腕を伸ばすという行動を取らせた。
――けれど。
次の瞬間世界はぐるりと回り、身体が床に伏していた。痛みがないのは彼女の加減のせいだろう。
動けない俺の前に膝をついた彼女は、いつか社交場で見たことのある心細そうな表情を浮かべて、震える唇を開いた。
『ほ、ほらね、私に落とせない男なんてやっぱりいやしないわ。貴男は四日前、弱っているところを私が誑かしたから勘違いしたの。いつも堅物な貴男が素直に縋りついてくる姿は面白かった。分かったらこの話はもうおしまい。可愛いチェリー、おやすみなさい』
ユラリ、空気に掻き消える彼女は。
真っ赤に頬を染めて慌てふためく、ただの普通の娘だった。




