*12* 悪女が講師の恋愛レッスン。
十五日目の深夜十二時。
私の機嫌は残念なことに良好とは言えなかった。その理由はごく簡単で、尚且令嬢らしからぬ不埒なものだ。昨夜こそはいけると思ったのに……妄想の中であったとしても、彼は私に指一本触れなかった。
私を待つ間にベッドの上で書類を読んでいる間に寝落ちたらしい彼の隣に座り、肩にもたれかかる。激務なのか少し痩せたように見える横顔は、精悍さと誠実さを削り出した彫刻みたい。
『ほんと、この疲れて痩せるまで頑張るような仕事馬鹿ぶりが素敵ね。私ばっかり好きになるわ』
爛れた脳で不埒な妄想をするにしても、それは相手が一度でも雄の部分を見せてくれないと駄目なようだ。毎晩身体の上に跨がっても、うんともすんともならない鉄の理性の持ち主を前にしては、魔女呼ばわりされた私も形無し。
官能の化身、煩悩の権化、愛憎を生む魔女、社交界の黒真珠……などなど。御大層な渾名を散々もらったというのに、たった一人を籠絡できないなんて。
『悔しいけど、私を好きにならない貴男が好きよ』
結局のところ、肉欲のないこの強面な草食系男子が好きなのよね。この寝顔を見られるのも現状だと私だけでしょうし。こういうとき霊体だと鼻息とも鼻血とも無縁で助かっちゃうわ。
『ねぇ……アラン、早く起きてよ』
そっと告げたその言葉に、偶然だろうけど彼の閉ざされていた目蓋が震えた。
思わず正面に座ってキス顔で待ち伏せたらどうなるかと馬鹿なことを考えるも、流されると意外に傷付く気がしたので止めておく。その代わりにいつものように金縛りをかけてから、膝枕をしてもらう体勢で待つことにした。
目蓋が持ち上がり、琥珀色の瞳が私を捉えて心持ち呆れたように眇められる。
「アメリア……たまには普通に座って待たないか?」
『嫌よ。こういうのは意外性が、な――……え?』
いまこの人、私のことを名前で呼び捨てにした? それともいつもの“だったらいいな”の幻聴? こちらを見つめる琥珀色の瞳には何の感情の揺らぎも見られない。うん、考えるまでもなく幻聴一択ね。
『まぁいいわ。おはよう、お寝坊チェリー』
「おはようアメリア。チェリーよりはアランと呼ばれる方がマシなんだが」
『あら、聞いていたの?』
「君が名前を呼ぶからだろう」
ど、どど……どこからどこまで聞いてたのかしら、これ。名前の件だけだったらいいけど、それより前のポエム部分を聞かれていたら恥で消滅するわ。た、確かめてみる? いやいやいや、無理無理無理、それどんな自傷行為よ。
「アメリア?」
『私のことは雌猫と呼んで下さって結構よチェリー』
「チェリーでないと言ったらその呼び名を止めるのか、君は」
――え(え)?
――ま(待って)?
――は(初耳ですけど)?
『ちょっとどこの子猫ちゃんと遊んだのか教えて頂けませんこと? 相応しいお相手か見定めて参りますわ』
思わず膝枕の体勢から姿勢を正して座り直す。いえ、分かってるのよ。私でなければ大抵のお相手は相応しいの。彼が気を許してそんなことをしてしまうのだから、きっと素敵な女性に違いないのも。
内心嫉妬で気が狂いそうだけど、後学のために是非知りたい。好みの容姿とか性癖とか。真似できるかは別としても好きな人のことは全部知りたいのが乙女心。
「……冗談だ。仕事が多忙なのもあるが、そもそも家格も低くて見目も恐れられているのにそんな相手がいるはずがないだろう。それで、いまのやり取りに君の望んだ意外性はあったか?」
そう言うや口角を持ち上げて人の悪い笑みを浮かべた。ずるい人。いつもならどんなことがあった後でも帳消しにしてしまうくらい魅力的だけど、してやられた今夜は腹が立つわね……。
『一人目に紹介したパーシモン家のご令嬢は大人しい方だから、最初は彼女の傍を通りかかったら、天気のことで独り言を言ってみて。話かけられたのか迷って、結局無視できないで答えて下さるわ。そうしたらそこで挨拶』
「分かった」
だから彼から顔を逸らして、ややつっけんどんに女性を口説く説明を開始した。どうせ貴男は気にもしないでしょうけど。怒っているのよ。顔を見たら許してしまいそうだから絶対に説明しきるまでは見ないわ。
『そのとき【夜明けの色】という詩集を持って行くのを忘れないで。彼女は十六頁の【露】がお好きだから、それを匂わせれば好感度が上がること間違いなし。他に自分で気に入ったものがあればその詩を言ってみてもいいと思うわ』
「そうか」
早口になるのは別にどんな表情をしているか気になっているとかじゃないわ。睡眠時間をあんまり削ったら可哀想だから気遣ってあげてるの。本当よ?
『分かったら今日にでも王立図書館か書店で探してみることね。以上、説明終わり。それじゃあ――、』
勝手に自分で枷したおあずけを解除してそうっと彼の方へと顔を戻せば、彼はまだ薄く笑ったままの表情で。
「ああ、明日の深夜十二時にまた会おう」
この姿になってからも、そうなる前からも合わせて、初めて。次に会うための約束の言葉を私にくれた。