14話 期限の無い課題
「小田切さんだ」
週が明けて月曜の授業が終わり、佐々木と正門に向かって歩いていると、広場のベンチに誰よりも目を引く美人さんを見つけた。
トレードマークの白衣を纏った彼女は、その端正な顔に少し力を入れ、ノートにペンを走らせていた。真剣な熱がこもっていそうではあるが、その表情はやはり涼しげに見え、綺麗だ。
「先に帰るな」
「ああ、悪い」
「頑張れよ」
「さんきゅ」
見惚れていたのかもしれない。肩を軽く叩かれて我に返ると、少し苦笑ぎみの佐々木はあっさりと俺の思考を先読みしてくれた。
そんな友人に手を挙げて応じ、俺は広場へと一歩踏み出した。
もしかしたら邪魔になるかもしれない。真剣な顔にそう思いもするが、このくらいで嫌われるような関係では無いはずだ。
「小田切さん」
近付いてもまるで気付かなかった彼女にベンチの近くから声を掛けると、小田切さんは弾かれたように俺を見上げ、「いず……」と呟いたかと思えば、慌ててノートを閉じてベンチと背中の間に隠した。
「すみません。お邪魔でしたか?」
「い、いえ。そんな事は無いですよ」
視線を左右させながら笑う小田切さんに不快の色は見えない。ただそれでも何かの作業の邪魔にはなってしまったようで申し訳ない。
「ひとまず座りませんか?さあ、どうぞ。いず……君」
「あ、ありがとうございます」
何となく最後の方が聞き取りづらい呼びかけとともに、小田切さんはベンチの隣を勧めてくれた。申し訳なさは霧散し、俺は「ありがとうございます」と頭を下げて、内心の喜びを落ち着かせるかのようにゆっくりとベンチに座った。
「今日の授業はもう終わりですか?」
「はい。佐々木と帰るところだったんですけど、小田切さんが見えたんで」
「そうですか」
どこか嬉しそうにそう言った小田切さんは、口元を抑えてふふふと笑った
「どうかしましたか?」
「丁度いず……君と話したいなと思ってたので、つい」
「光栄です」
本当に。可愛らしく言われたその言葉だけで、この広場を走り回りたい衝動に駆られる。
「この間の話を覚えてますか?」
「呼び名の話ですか?」
満月を背にした小田切さんが言った事。「特別な呼び名を考えておきます」との言葉に、期待をしていなかったなどという事はあり得ない。
どんな風に呼んでくれるのかと期待していたし、それならば逆に俺の方も呼び名を変えてもいいのではないかと、少し考えてみたりもした。
「はい。ちゃんと考えて来ましたよ」
「聞かせてもらってもいいですか?」
「……さっきから呼んでます」
泉君としか呼ばれた記憶が無いのだが、不満げな視線を俺に向ける小田切さんが嘘を吐いているとは思えない。
「すみません。聞き逃してたみたいなんでもう一度お願いできますか」
申し訳なさをこれでもかと表現しつつそう言うと、小田切さんは「わかりました」と涼やかな声で言い、大きく息を吸った。
そしてそのまま吐き出した。
「改めてとなると緊張します」
「確かにそうですね」
恥ずかしそうに笑う小田切さんは、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「いず……君」
「あ」
照れ笑いをしながら上目遣いで俺を見つめる小田切さんと目を合わせ、ようやく理解した。
今日は呼んでもらった時の「泉君」が聞き取りづらいと思っていたが、小田切さんは最初から「いず君」と呼んでくれていたのだ。
「いず、君。で、どうでしょう?」
「はい、その。いいと、思います」
理解した瞬間から顔に熱が集まるのがわかる。松宮から呼ばれる「いずみん」と何が違うのかと言われると、自分でもわからない。それでも何故か、この人が口にしてくれる「いず君」の呼び名は、どうしようもなく俺の心臓に負荷をかける。
「本当にそう思ってますか?」
「はい。もちろんです!」
途切れ途切れになった俺の返答が不満だったのか、小田切さんは下から覗き込むように俺を見つめてきた。ますます心臓に悪い。
「小田切さんが考えてくれた呼び名なんで、不満なんて……と言うか満足しかありません」
「そう、ですか。それならいいんです」
俺が言い切ると、小田切さんはクールな表情に戻って、姿勢も元通り。心臓には優しいが、それでも惜しいと思うのは二律背反だろうか。
「それじゃあ、今日からいず、君と呼びます」
「はい。お願いします」
呼ぶ方にも呼ばれる方にもまだ気恥ずかしさが残るらしく、何となくお互いに前を向いたままになってしまう。
「いず、君」
「はい」
「いず、君」
「はい」
「中々慣れません」
最初は照れ笑いからスタートした小田切さんの顔に、ほんの少しだけ不満げな様子が滲む。
「これからゆっくり慣れてもらえれば、いいなと思います」
「そうですね。時間はたくさんありますから」
「はい」
これからも一緒にいてください。大分婉曲に言ったせいだろうか、言葉の真意はまるで伝わっておらず、小田切さんはただただ楽しそうに笑った。
「こういうのは文系向けですかね」
「どう言う事ですか?」
俺の独り言を聞いて、怪訝そうな表情を浮かべて首を捻る小田切さんに肩を竦めて見せた。
「まあ俺も文学専攻じゃないんで、よくわかりません」
「あ、私が理系だからってバカにしてますね?」
「そんな事ありませんよ。小田切さんは作者の気持ちがわかる理系ですからね」
「その通りです」
俺が笑うと、白衣の彼女は自慢げに胸を張る。その割には俺の気持ちにはまるで気付かない訳だが。
「大体、いず君の方が文系なのに作者の気持ちが分からないタイプですよね?」
「いやいやいやいや。俺はそういうの得意な方ですよ」
まさかこの人にこんな事を言われるとは思わなかった。
「それじゃきちんと証明してみせてください。証明方法の正解は一つだけです」
「それは?」
「そこから考えてください」
「数学のテストってそんな感じでしたね……」
思い出してげんなりする俺に、小田切さんは僅かに子どもっぽい笑みを浮かべた。
「期限は特に設けませんから。待ってますよ」




