1話 作者の気持ちがわかるタイプの理系
木曜日は部活とサークルの活動日なので半日授業。
12月最初のそんな木曜、先週サークルを辞めたばかりの俺は、毎週の癖で昼食の用意を忘れた。
今からでは生協にもコンビニにも碌な弁当は残っていないだろうと思い、学食で昼食をとっていた。
今まではサークルの同級生と適当に待ち合わせていたが、今日は一人で。サークル棟から遠い第一食堂を選んで。
午後の授業がある他の曜日と比較すれば、木曜は昼時と言っても学食、特にこの第一食堂が満席になる事は無い。
部活やサークルの活動場所に近い第二食堂の方が混雑するし、時間を気にせず駄弁る連中は、12月の寒空の下でもテラス席に陣取るので、内部の空席率は50%をゆうに上回る。
だから俺の周囲に空席が目立つ事だって別に不思議な事ではないし、一人で食事をする奴だって珍しくない。
だと言うのに少し陰鬱な気分になってしまう。だからだろう、目の前に座っていた有名人に気付くのが遅れたのは。
ふと顔を上げると、白衣を纏ったクールな美人が静かにうどんを啜っていた。
俺は自分の食事を忘れ、まっさらな白衣につゆが撥ねないだろうかと、勝手ながらハラハラしている。
白衣なのだから本来は汚れてもいいのだろうが、うどんのつゆの染みはこの人の服に似合わない。
この先輩の事は以前から知っていた。
いつ見ても白衣を纏ったその人は、形としては切れ長でありながらも大きな目に、よく通った鼻筋、少し薄めの唇とシャープな輪郭をした、見る者に怜悧な印象を与えるクール美人。
黒く綺麗な髪は白衣にしまわれている為正確な長さはわからないが、それが出来る以上はそれなりに長いのだと思う。
周囲から浮いているはずの白衣姿が、神聖にすら感じられる程良く似合っている。もちろん似合っているだけで、浮いている事は間違いないが。
「何か?」
少し前にちゅるりとうどんを吸い込んだ唇から発された声は、初めて聞いたがクールな外見に反して意外と可愛い。
睫毛長いなと思いながら視線を向けていたその人の目が、俺の方に向けられる。
客観的に見て、俺の今の行動は気持ち悪いの一言に尽きる。食事中の、それも面識の無い女性をじっと見ていたのだから。
白衣につゆが撥ねないか心配だった、などというのは俺の勝手な言い分だし、先輩が美人でなければ、恐らくこうまでじっとは見なかっただろう。
にも拘らず、目の前のクール美人は非難や嫌悪を俺に向けているようには思えなかった。涼やかな瞳に浮かぶのは純粋な疑問、そう感じた。
「えっと、うどんのつゆが白衣に撥ねたら染みになっちゃうなと思いまして。すみません」
「ああ。そういう事ですか。別に汚れても構いませんから」
俺が頭を下げると、彼女は納得がいったのか、それだけ言ってまた静かにうどんを啜り始めた。「それだけですか?」と口を衝きそうになったが、敢えて藪をつつく事もないだろうと、何とかその言葉を抑えた。
「すみませんでした」
もう一度謝罪を口にし、席を立ってトレイに手をかけると、目の前のクール美人が不思議そうにこちらを見ている。なので先輩を見ながら謝った俺とバッチリ目が合う。
「もう食べないんですか?」
「え?いや、食べますよ」
「じゃあどうして席を?」
「ええと……」
いくらあまり気にしてなさそうだとは言え、不躾な行いだったとは思うし、しかも相手は女性だ。
とびきりの美人なので元々人目を引きはするだろうが、それでも初対面かつ食事中にじろじろ見てくる男などと同席はしたくないだろう。
しかし、だから気を遣いました。と自分から口にするのも憚られる。
それに情けない話だが自衛の面もある。
もし先輩が俺に嫌悪を抱いて席を移してしまったら、自業自得とは言えやはり傷付く。それを避けたい気持ちが無かったとは思わない。
「すみません」
「え?」
何と言ったら良いものか――咄嗟にまだ食べると言ってしまったのが良くなかった――と、立ったまま悩んでいると、今度は少し斜め下の先輩の頭が少し下げられた。
「どうして謝るんですか?」
はっきり言ってわからない。10対0で俺が悪いのに、なぜこの人が頭を下げる必要があるのか。
「私が何か不快にさせたんでしょう?」
だからあなたは席を立った。そう言いたげに、僅かな不安の色をその顔に見せる彼女は少しだけ首を傾げた。
「いや違います」
あまりの勘違いに、俺は慌てて再び席について、先輩へと視線を向けた。
否定の言葉になのか、座り直した俺の行為になのか、それはわからないが、彼女が少しホッとしたような様子が見えた。
「ええと。勘違いです。逆に俺が不快な思いをさせたと思って……」
「何故?」
「その……お食事中にじろじろ見てしまったので」
「白衣につゆが撥ねないか心配してくれたんですよね?」
「まあ、その、はい」
確かにそれが一番大きな理由だ。わざわざややこしくする必要もないだろうと、少しの罪悪感を隠して話を合わせると、先輩は少しだけ考えるような仕草を見せ、「それじゃあ」と呟いて顔を上げた。
「お互いに勘違いしてた訳ですね」
「そうみたいですね」
涼しげな表情を僅かに崩して微笑む先輩に一瞬見惚れた。
学内で誰もがこの人に抱く、近寄りがたい不思議なクール美人という、そんな印象が一瞬で上書きされる。
もう少しこの人と話をしたい、そう思った。それなのに――
「やっぱり、私は作者の気持ちがわからないタイプの人間なんですかね?」
自嘲気味に笑った美人さんから発された言葉は、まるで意味の分からないものだった。
「作者の気持ち?」
「そうなんです!」
俯きかけていた先輩は、勢いよく顔を上げ、白衣から黒髪が一房こぼれる。
まっすぐなその髪は胸元までの長さで、毛先まで艶が保たれている。
そんな彼女が俺に向けた瞳が、僅かに揺れた。
「あ、その前に自己紹介を。理学部2年の小田切心です」
「人文学部経済学科1年の泉史人です」
お互いに名前と学部を伝えて頭を下げると、小田切さんは少し落ち着いたのか事の顛末を話してくれた。
学科の男子からクリスマスの予定を聞かれ、暇だと答えたところ「一緒にパーティーでもどう?」と誘われたらしい。
小田切さんが、「他に誰が来るの?」と聞き返したところ、上手く話が噛み合わず、最終的には「小田切さんは作者の気持ちとかわからないタイプだよね」と言われたとの事だ。
「実験の時くらいしか話した事無かったから、いきなりデートの誘いだなんて思う訳無いのに。それなのに酷いと思わないですか?」
「それはまあ、確かに分かりづらいですね」
前後の流れや場の雰囲気を知り得ないので何とも言えないが、確かに話を聞く限りでは小田切さんが分からないのは仕方ない気がする。
因みにどうも「作者の気持ち」というのはそのまま他人の気持ち、という意味で良さそうだ。
相手の人も恐らくフラれた気まずさを誤魔化す為に――だとしてもどうかと思うが――冗談めかして言ったのだろうが、面と向かって人の気持ちがわからない奴扱いされては、目の前のクール系美人が思い出してぷりぷりしているのも仕方のない事だろう。
「じゃあやっぱり、私は理系だけどちゃんと作者の気持ちがわかる理系なんですね」
「はい」
多分。恐らく。と続けたかったが、ニコニコ顔の小田切さん相手にそれは言えなかった。
春に入学してから何度も見かけていた、クールで美人な見た目の先輩は、その印象に反してコロコロと表情を変える。
そんな彼女が微笑ましい。クリスマスを一緒に過ごしたいと思う人がいるのは、美人なだけが理由ではないのだろう。
「ありがとう。ええと、泉君?助かりました」
「いえ。このくらい何でも無いですよ」
ぺこりと可愛らしく頭を下げる小田切さんに、本心からそう伝える。むしろ俺がほっこりさせてもらった分礼を言いたい。
「あ。そろそろ失礼しますね。話に付き合ってくれてありがとう」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
もう少し話したかった。続けたかったそんな言葉は飲み込んだ。
手を振って去っていく小田切さんが、俺のそんな気持ちに気付く事は、流石に難しかったのだと思う。
現代文の設問で作者の気持ちを問われる事はほとんど無いと思われます。




