僕はまだ春の鼓動を知らない
桜の下の春の精
僕はまだ春の鼓動を知らない [上]
僕はずっと、春に触れられないまま生きてきた。
二年前に会った春の精が、今までの人生の中で一番近くに感じた春だった。けれど、僕はその妖精にも触れることはできなかった。
春の精と名乗った彼女は、真っ白なスカートをふわりとなびかせて、短い黒髪を弾ませて、楽しそうに話す人だった。
病院の裏の公園にある大きな桜の木の下のベンチが、僕ら二人の集まる場所だった。緑の葉が落とす影の中でいつも彼女がうたた寝していたり本を読んでいるところに、僕が訪れてふたりで話した。
たまたま散歩していた僕に彼女のほうから声をかけてくれたのがはじまりだった。彼女が「春の精」と名乗ったので、僕は「失敗作のロボット」だと名乗った。彼女は「長いから愛称をつけましょう」と言った。僕は彼女のことを「ハル」と呼ぶようになり、ハルは僕のことを「しろ君」と呼んだ。
僕と彼女はすぐに意気投合し、頻繁にそこで会うようになった。ハルと話しているのは楽しかったし、彼女もそう感じてくれていたと思う。お互いの名前も知らないけれど、確かに僕らの心は通じ合っていた。僕はそう信じている。
ぎこちない話し方でも、ハルは丁寧に相槌を打ちながら僕の話を聞いてくれた。やさしい笑顔で笑うハルが、僕は好きだった。
ただ、時折その笑顔が悲しそうに見えたのが、僕の気のせいだったのかは分からずにいる。
*
もうすぐ桜が咲くのだ。淡く色づきふくらんだつぼみが、この真っ白な部屋からも見えている。窓から見える世界は、テレビの向こうの遠い異国のような、僕には無関係なアニメの異世界みたいな色をしていた。
それくらいに、僕には春が遠かった。
真っ白なベッドとカーテン。うっすらと感じる消毒液の匂いに包まれ、ストライプのパジャマを着た病弱な僕。ガラスを隔てた別世界に踏み出すためには、この胸を刃物で切り開かなくてはならない。
僕は怖いのだ。
大人は「大丈夫だよ」と簡単に言うけれど、怖いものは怖い。ステーキをナイフで切るように、自分の胸にメスを入れる。そんな想像をしては鳥肌が立つ。
馬鹿な想像だってことは分かっている。大人達が言うように、特別難しい手術ではないから大丈夫だということも。なのに気持ちが置いて行かれてしまっていて、それをここまで引っ張ってこなくては、僕は決断できないのだと思う。
病室のドアが小さな音を鳴らしながらそっと開けられた。母親だった。
「諒くん、おはよう。起きてる?」
「うん、おはよう。」
母親の顔を見ると少し憂鬱な気分になった。笑顔に隠された哀れみなどの感情を感じ取ってしまうのが、とても重かった。
「今日もお母さんね、仕事で遅くなるから、夜は来られないの。ごめんね」
「ああ、大丈夫だよ。仕事頑張ってね」
本音は奥の方にしまって、なるべく自然に見えるように微笑む。
「ありがとう。じゃあこれ、着替えと、ジュースと、おやつ置いていくから。ご飯はちゃんと食べるのよ」
「わかった。いってらっしゃい」
「いってきます」
母親はにっこりと笑って僕の頭を撫でてから病室を出て行った。
ドアが閉まり、母親の足音が聞こえなくなると、僕の笑顔の仮面は崩れた。
ああ重い。怖い。気持ちが悪い。
母親が触れた髪の毛をむしり取ってしまいたい衝動を、なんとか堪える。
きっと、一般的に見て僕は異常なのだろう。病気を心配してくれる親をまるで雑菌だらけの虫のように思っているのはおかしいのだろう。
髪をわしゃわしゃと乱暴に掻く。風呂へ行こう。この時間ならまだ誰もいないだろうから。
病院の最上階にある大浴場は、医者に許可をもらった患者とその保護者だけが入れる場所だから、人は少ない。まして月曜の朝8時に風呂に入る患者は珍しい。今日は僕以外に人はおらず、貸切状態だった。
この病院は新しいから綺麗だし、最上階なのでそれなりに眺めも良い。僕のお気に入りの場所だ。この空間を独り占めにできるのはなかなか気分が良かった。
まずは頭を3回洗った。それから丁寧に体を洗って湯船に浸かった。3日ぶりの風呂だったので念入りに汚れを落としたかった。洗い終えた頃には40分ほど経っていた。
小さめの窓から見える景色は、こじんまりとした住宅街とその上をふわふわと流れる白い雲だった。
僕はお湯に浸かったまましばらくぼんやりと窓の外を眺め、20分くらいしてから大浴場を出た。
嫌な気分は汗と一緒にうまく洗い流せたみたいだった。
病室に戻ると本を読んだ。読書は退屈な病院での数少ない娯楽だった。間に昼食を挟んで二時間半ほどで読み終えた。
最近話題の小説だったが、あまり感動は出来なかった。表紙に咲いた満開の桜のせいで、きちんと内容に集中できてなかったのかもしれない。いや、単に病気の少女との恋という内容に、無意識に嫌悪感を覚えていたのかもしれない。
僕は本を閉じて、ハルのことを思い出していた。覚えていたいと願っても、やはり記憶は薄れていくもので、ハルの言葉や声はぼんやりとしか思い出せない。ただ、あの儚い笑顔は他の記憶より鮮明に思い浮かべることが出来た。
涙が出るわけでも、笑みがこぼれるわけでもなかった。次は、触れられるだろうか。午後はずっとそんなことを思いながら横になって外を眺めたりしていた。
来客は想定外だった。しっかりとした音のノックが四回、真っ白な部屋に響いた。
看護師や医者ではないというのが感覚で分かった。「どうぞ」と言った自分の声は、思ったより低く硬かった。
入ってきたのは長身の女性だった。長い黒髪を揺らしているのが、艶っぽい妖しさを放っていた。
彼女はやわらかい声で「こんにちは」と言った。僕は反射的ににこりと笑って「こんにちは」と返した。反射というより、直感のほうが近いかもしれない。
彼女はヒールの音を立てながらこちらへ何歩か近づいてきた。そしてやわらかさの中に震えるような毒を含んだ言い方で言った。
「はじめまして、諒くん。いや、」
ハル以外は知るはずのない、僕の名前。
彼女は確かに、しっかりとした声でその愛称で僕を呼んだ。
しろくん。