紫苑【二話】
今日2人目の客の志田夕葉は四時半の予約時間ぴったりにやってきた。いつも通り赤いリボンのセーラー服を着ている。この町の中学校の制服だ。志田はいつも学校帰りにこの店へ来る。
「コノエさん、こんにちは。」
志田はふわっと笑って言う。
「ああ、夕葉ちゃん。いらっしゃいませ。」
コノエも笑顔で返す。
「今日も、お母さまでよろしいですか?」
「はい。お願いします。」
志田は落ち着いて座っている。もう二十回は超えているだろうから、慣れたのか。
「かしこまりました。では少々お待ちください。」
そう言ってコノエはまた裏の部屋へ移動して変化する。二十回もやっていると変化するのも慣れてくる。足首まである長いスカートにブラウスを着た、優しい目をした女性に変わる。
志田の母親、『志田七海』は街で一番大きなお屋敷で働いていたが、その屋敷が火事になり、巻き込まれて死んでしまったそうだ。まだ小さかった娘の夕葉を残して。残酷な話だ。
「ふう。まあ今日も上出来なんじゃないかい。」
コノエは鏡を見て得意げに言ってから少し考えて、切ない顔をした。
「こんなことで、あの子の気が紛れるならいいねえ。」
そうつぶやき、彼女の不幸を呪う。
そしてまた「紫苑の夢を、追憶に」と唱えてコノエは扉を開けた。
「夕葉、一か月ぶり。元気にしてた?」
明るく、少しざらついた女性の声で、コノエは志田に微笑む。
「おかあさん、久しぶり。もちろん!元気だったよ」
志田は嬉しそうに笑う。コノエはそれが少し引っかかっていた。けれど今は仕事だから、とそのもやもやは飲み込む。
「そう。良かった。」
コノエは笑顔を崩さずに言う。
それからいつものように何気ない会話を続けた。学校の話、テレビや漫画の話など色々。四十分はあっという間だった。その間、志田は心から楽しそうに話していた。
「また会いに来るからね、おかあさん。」
「うん。待ってるわ」
最後にそう言って終わるのが二人の習慣だった。
コノエは元の姿に戻って会計を済ませた。志田の料金は、実は少し値引いてあった。そう、コノエは志田に同情していた。だからこそ聞いた。きっと聞くべきではなかったのだが、情けをかけてしまったから言った。
「夕葉ちゃんは、今まで会っていたお母さんが偽物だったら怒るかい?」
志田は目をぱちぱちとさせて、それからふふ、と笑った。
「そんなわけないじゃないですか。それに」
一度言葉を切ってコノエに向き合う。
「私は、おかあさんに会えればそれでいいんですよ。じゃあまた」
そう言って志田は店を去った。コノエにはなぜか彼女の後姿が今にも崩れて消えそうな、脆く弱いもののように見えた。
多分、あの子は気付いてる。知っててここに来ている。そうやって母親がいない分の空白を埋めようとしているのだ。
「ニセモノで、いいのか。
本物じゃなくて、ただの狐の嘘で、いいのか。」
コノエは着物の袖から一枚の写真を取り出した。ポロシャツを着た、顔の整った一人の男が人懐っこい笑顔で映っている。その頬を撫でながらぽつりと言う。
「やっぱり本物に、会いたいじゃないか。」
寂しい表情で、コノエはふっと息を吐いた。そして手を上にあげて伸びをする。
「さてと、一人で帰るか。」
こんな商売をしていても、コノエ自身が思い通りに大切な人に会えるわけではない。自分がなったって意味がないし、他の狐の変化は簡単に見抜けてしまう。どんなに精巧に真似てもきっと分かるだろう。誰もあいつにはなりきれない。
コノエは着物を脱いで髪飾りを外し、朝着てきたニットとジーンズに着替えた。人間の姿でいることには慣れたが、着物は重い。身軽になったコノエは店の片づけをして身支度をする。
そのとき、からんからんと店の扉が開いた。
コノエが驚いて振り返ると扉を開いた人物がのんきな声で言った。
「やあ、コノエ。来ちゃったけど、大丈夫だった?」
それはコノエの夫である紫月だった。コノエが見ていた写真に写っていた通りの美男だ。
「お前、今日は来ないんじゃなかったのか。」
紫月は頭を掻いてふにゃりと笑う。
「それが仕事の時間間違えてたんだよねえ。んで、思ったより早く終わったから、たまにはコノエと帰りたいなあと思ってね。」
「ああそうかい。じゃあ支度が終わるまで待ってておくれ。」
「うれしくないのかい。僕と久しぶりに帰れるってのに。」
紫月は少しふてくされて言ったがコノエはそれを「はいはい」と軽く受け流す。嬉しい、とかさっきまで紫月のことを考えていたとは言わない。紫月が調子に乗るしなにより恥ずかしいのだ。
コノエの支度が終わると、紫月は窓の外を眺めながら言った。
「今日はこの姿のまま帰ろうか」
「ああ。お前はその姿の方はかっこいいもんなあ。戻るとだらしないお腹の寝ぼけた面の狸のくせに。」
「否定はしないがひどいなあ全く。
確かにコノエの隣を歩くならこっちの方がいいってのもあるけどさあ…」
紫月はまた窓の方に目を向け、ふうと息を吐く。
「なんだい。他に理由があるのかい」
コノエが少し呆れたように聞くと紫月は窓の外を見たまま言う。
「あれ、やりたいなあ、と。思いましてね?」
紫月は外を指さして、コノエの顔色を窺うように首を傾げる。紫月が指さしていたのは手をつないで歩く若いカップルだった。
「僕らも、手をつないで帰りません、か。」
断られるかもしれないと思っているのか、変なところで言葉を切るから可笑しかった。やっぱりこういうところは昔から変わらなくて紫月らしい。
「まあ、今日寒いしな。別にかまわないよ」
コノエはなるべく普段の口調から変えないように気を付けて言った。すると紫月は肩がぶつかるくらいの勢いで近づいて手を取る。
「ありがとうコノエ。じゃ、帰ろっか。」
「ああ」
コノエは紫月の、自分より少し大きい手が懐かしくて握り返した。こいつの代わりはいないなあ、と思いながら紫月の嬉しそうな横顔を眺めた。
二人は並んで、ゆっくりと家に向かった。