第九十八話 クロスとミュー
「……こんにちは、ミューさん」
誰もいないように見える空間にクロスはいた。
そこは星が瞬き、今まで見て来た中で最も美しい星空の中。
まるで夜空の中に立っている、そんな錯覚すら覚えるほどに手で掬い上げられそうな光が近くに、そして遠くにも瞬いている。
ふわりと赤いワンピースのスカートを膨らませ、爪先から舞い降りてきたミューは透けてしまいそうなほどに白かった。
ぺたりと床に置いた足は薄く、小さい。
履いていた靴はまた脱ぎ捨ててしまったようだ。
人形のような見た目の彼女は大きく赤い瞳をクロスに向ける。
「クロスくん、クロスくんだ。こんにちは」
「……手を見せて。また、血が付いてる」
短く切られている小さな爪の間には乾いた血が挟まっていた。
ミューの変化に、クロスは目ざとい。
そっと指先に触れると、乾いた血がこびりついてしまっている。
観測者として珍しくないのが発作的に行ってしまう自傷行為だった。
ミューも歴代の観測者と同じように、いつも見える場所に怪我をしていた。
腕には血が滲むほど歯を立てた跡もあるし、自分で自分を殴りつけるせいであちこちに薄いあざもある。
「わーって。わーってなっちゃうの。だからね、これは仕方がないことなの」
誰も怒りはしないのに、ミューは必死に言い訳をする。
不安そうな目をしているミューにクロスは自然と優しく笑いかけていた。
「ウエットティッシュを持って来ましたから……。ほら、綺麗に取れるでしょう?」
ミューに出会ってから、クロスは治癒魔法を勉強すべきだったと後悔した。
そもそも怪我をすること自体、年齢を重ねるにつれて減っていたし、フェダイン在学中に怪我をするとなれば実戦練習だった。
治癒魔法を星組の生徒が使えたので困ったことは無かったが、生傷の絶えないミューが気になり、最近は軽い手当をするにはどうしたらいいのか調べていた。
「クロスくん、ミューとお仕事じゃないお話しをするのはなぜ?」
跪いてミューの手にこびり付いた血を拭き取っていると、顔を近付けて尋ねられた。
手の動きが遅くなる。
「……ミューさんと、お話しをしたいからですよ」
「ミューとお話し?」
答えたクロスの顔は赤く染まり、必死にミューの手に集中して顔を上げないようにしている。
「ミューはここがミューの世界だから。世界中の人が笑ったり、泣いたり、怒ったりする事はミューには無いの。あっちゃダメなの」
「え……」
観測者として選ばれた者は皆、この部屋で一生を終える。
外出もせず、友人も作らず、数えるほどの人間としか顔を合わせずに。
思い出や経験などは不要とされ、命が尽きるまで世界中の一人一人の情報が頭に入り続ける。
忘れる事は叶わず、観測者自体が世界の人々を休みなく見守り続けるデータバンクである。
それがどれだけの負担を掛けているか、彼女の痛々しい傷跡を見れば分かる。
観測者はその無茶な負担とストレスのせいで短命であり、次の候補者ももう用意されている。
観測者の仕事の邪魔をしないように、余計な欲を生まぬように。
それが観測機関に勤める者の鉄則でもあり、暗黙の了解でもあった。
観測機関に勤めていても、観測者のいるこの部屋に入室できるのは一部だけで観測者がどういった人物なのか知らない者の方が多い。
こんな体制によってこの世界が守られてきている事を、人々は知らないのだ。
「それが幸せで、お仕事に頑張るミューは偉いの」
上を向きながら胸を張ったミューは、途端にがくりと頭を下げた。
長い髪の毛がクロスの頭に触れ、くすぐったい。
「……でも……ミューにはクロスくんにお話しできるような事がないの。ミュー、なんにも話せない……」
「今も、こうして話しているじゃないですか。ミューさんと、ただ会話をしたいだけなんです。……はい、綺麗になった」
仕上げに新しいウエットティッシュを一枚取り出して手を包むようにして拭くと、元の綺麗な手に戻った。
ひんやりと濡れた手が気になるのか、目の前でぶらぶらと両手を揺らしてくすくすと笑う。
「聞いて、聞いて。ミュー、クロスくんのことを話す」
瞳を輝かせてミューは言う。
「僕ですか……!?」
「うん、うん。クロスくんの情報はね、ミューは前のおねーちゃんから引き継いでるからね、全部知ってるんだよ」
「……ちょっ、な、何を話そうとしてるんですか……?」
「大好きなロボットアニメに間に合うように学校から走って帰るクロスくんのお話しする? そういえば、最近は見ないの?」
先ほどとは違う赤みがクロスの顔を包む。
「みゅ、ミューさん……その、誤解ですよ? ロボットアニメの為に走っていたわけではなくてですね…?」
「そうなの? でも、クロスくん、鞄を持ったままアニメ見てたり……」
「あ、あれは子供だったので! そうです! 小さかったのでね!」
「あ、そっか。今はだからグッズを集めてるの? いいなあ、いいなあ。どんなお話しなの? ミュー、見てみたいなあ」
いつもどこにいても見られているというのは、知られたくない一面まで知られてしまうのだ。
「ミューね、ミューね! お兄ちゃんに取っておいたケーキのイチゴを取られて泣いたクロスくんも知ってるよ。どう? どう? すごい?」
「うーーーわーーーー!」
両手で頭を抱えて膝から崩れ落ちたクロスは、恥ずかしさで頭が割れてしまいそうだった。
「すごい、すごいですよミューさん! だからその事は他の人に……というより、あのカイ・トウドウにだけは言っちゃ駄目ですよ!」
検索対象の名前と顔さえ分かれば前任者から引き継いだデータも含めて検索をかけられるのだ。
まだ十五歳の彼女が生まれる前のはずの、幼いクロスを知っているのもその能力を使ったのだろう。
「それは約束できないの。できない。情報開示の申請がミューに来たら開示しなきゃならないから。できない。ミュークロスくんの役に立てない。役立たず」
「いいんです! いいんですよ! ミューさんがお仕事で開示するのであれば! でも今のように、昔の情報を申請してないのに開示しては駄目ですよ? ……本人の許可があればいいんですが」
「わかった。それは約束できる。そうする」
小指を出して来たミューに面食らったクロスは戸惑った顔を見せた。
下唇を噛んだまま笑うミューは下から覗き込むようにクロスを見る。
「約束、ゆびきり。これ、みんなしてるから。ミュー、初めて」
『みんな』とまるで近しい人間を指すように言ったが、ミューの言う『みんな』とはこの世界中の人々のことを指す。
ミューにとって、世話をしてくれる観測機関の者と世界の人々は同じ比重のようだ。
彼女にとっては、毎日顔を合わせるのだからなんら不思議なことでもないのかもしれない。
「……約束、約束です」
クロスの休憩時間がもうすぐ終わる。
理由をこじつけてミューの場所まで来たが、もう戻らなければ。
ここには申請を上げた一組ずつしか入れない。
なので時間が重なれば順番待ちとなる。
構造上、出入りの際に待っている者と鉢合わせる事はないのだが、あまり頻繁に顔を出せる場所でもない。
次はいつ来ると言えない苦しさが、クロスの顔を曇らせた。
「……では、そろそろ失礼しますね」
「不思議。クロスくんは不思議。ミューに仕事を渡しに来た訳じゃない」
「……貴女に、会いに来たんですよ」
何とも言えない表情になったミューに、ようやく余裕を取り戻せたクロスが笑いかける。
「理由なんてそれだけです。……では、また」
どうしても、彼女を放っておけない。
本当は毎日決まった時間をミューと過ごしたいがそうはいかない。
観測者に想いを寄せているなどと分かれば、上も黙っていないだろうし陽の当たる部署から外されてしまうかもしれない。
この世界を守る為に必要とされている観測者。
その仕事に支障が出る要素はこうして全て排除され、彼女はこうして小さな宇宙の中に漂っているのだから。
もしも観測者として使えない状態になれば、知り過ぎている彼女は消されるだろう。
パートナーになれなくても、せめてあの場所から救い出してやりたい。
その為に足りないのは、自分の力だ。
「……上に行くしか、ない……か」




