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第九十七話 甲斐の悪夢



「おい? なんかあったか? 虫ぐらいなら素手で潰すだろうし……怪物が出たんだろ!?」



 ノックというには荒過ぎる。

 甲斐の部屋のドアを叩きながら向こう側からシェアトが呼びかけて来る。


 返事をしようと思ったが、かさつく声が舌の上に乗った。

 喉の渇きが酷く、体は熱くないのに異常に汗をかいていた。

 ベッドから下りてドアを開くとようやく安心したような表情を見せたシェアトは、みるみる内に戸惑い、そして赤面しながら目を泳がせた。



「なななななんつーカッコで出て来てんだよ! おまっ、バカ! ベッドに誘うにもムードとかそうゆーもんがだな!」



 シェアトは甲斐の顔ではなく、首より下に釘付けである。



 その目線を辿り、やっと下着姿だった事を思い出したがとくに隠しもせず、ドアを開けたまま着る物を探し始めた。

 恥じらう甲斐を見る事は永遠に叶わない予感がした。



 ドアを開けたままでは誰かが通れば見えてしまう。

 それだけは絶対に阻止したい。

 甲斐は気にしないだろうが、シェアトは気になるのだ。


 そっと中へ足を踏み入れてドアを少しだけ開けておく。

 流石にこの状況で密室にするのも、なんだか居心地が悪かった。



 甲斐の着けているブラジャーはショッキングピンクのサテン生地には黒い蝶の刺繍があり、黒いレースが胸元を飾り立てている。

 ショーツも同じようにレースが黒く、左右には赤いリボンが付いていた。


 着るものを探すのが面倒なのか、床の辺りに目をやるとスーツはお手伝い天使に回収されてしまったが、自分のワイシャツが床に落ちていた。

 それを羽織るとまだ湿っている背中に張り付いて不快だが仕方がない。


「ごめ……ア゛ァンっ! あーあー……よし。寝てたんだけどさ、うるさかった?」

「なんだ……今の初老のオッサンがやるような咳払いは……?」

「なんか喉カサカサで声出なくて……」


 下に履くものが見つからないのか、ようやくクローゼットを開いてデニム生地のホットパンツを取り出して足を通した。

 甲斐がこちらを見るたびに目を逸らし、見ていないようにしているシェアトは、そっと目線を甲斐に合わせる。

 ワイシャツは白く、下着が透けて見える。



 鼓動が早く、顔が熱くなった。



「お前……見えてんぞ……」

「見んな!」

「そうじゃなくて、なんかもっとしっかりした生地のやつ着ろよ! 透けてんだよ!」

「あー……そう? ていうか本格的に着替えるならシャワー浴びたいんだけど……」

「あ、俺のせいかよ……。いや……他になんも無ぇならいいんだけどよ……」


 同じ部屋に異性がいるというのに下着姿で堂々と着替え始める。

 一体どういう神経をしているのだろう。



「お前に限ってまさかとは思ったんだけど悲鳴みたいのが気になって見に来てやったんだ、感謝しろよな!」




 まだぼうっとした気怠さが残っている甲斐は『悲鳴』と言われ、ついさっきまで見ていた夢を思い出した。



 あれはこの世界の甲斐が記録した映像であり、それを勝手な話だが託されてしまった。



 最後の映像の締めくくりでは、『邪魔なシェアトをなんとかするように』ともう一人の自分は漠然とした願いを口にして、深手を負ったままこの世界から消えてしまった。

 安否も分からぬままだったが、甲斐のいた世界の病院にいる事をほのめかす映像が卒業試験の日に突然指輪から流れ始めた。



 だがそれきり、指輪は沈黙を守り続けている。

 錆びる事の無い指輪は甲斐のはめる指に合わせてサイズが変わるので、気分によって邪魔にならない指を変えてはめていた。



 指輪の映像の話は、誰にも言えなかった。

 特にシェアトには言えない。

 この先の彼の未来を守ろりたい一心で、進路をシェアトと同じW.S.M.Cへ決めた。

 

 

 何が未来に待つのか、分からない。

 この世界に来た意味はきっとシェアトを守る為だったのだと、思うしかなかった。




「なんでもないよ。夢見が悪かっただけ」

「……そ、か。……ま、ゆっくり休め。あんま気にすんなよ」

「へ? 何を? 下着姿を見られた事を?」

「それは気にしろよ……! 相手が俺じゃ無かったらどうすんだよ」


 さっきからシェアトが何を言いたいのか、甲斐には伝わっていないようだ。

 ようやく甲斐の顔を見たシェアトの目に、頬の傷が映り込む。



「SODOMは俺達にとって特別なモンじゃねえ。仕事上の付き合いと、任務対象になったら仕事をするだけだ。そうだろ?」



 自分に言い聞かせるようにシェアトはゆっくりとした口調だった。

 不自然なほど、エルガの話が彼の口から出て来ない。



「……俺は、お前のその頬の傷を忘れねえし『もし仮に』どこの誰だか知らねえが人に付けられたモンなら絶対にそいつを許さねえ」



 甲斐に近づいて頬の傷を親指でゆっくりとなぞるシェアトの瞳は険しい。



「お前が気にしてないとかなんとかピィピィ言ったって、ンなもん知るか。大事なヤツ傷つけられて何も思わねえ方が無理だろ」


 今度は甲斐の眉が困ったように下がってしまった。

 

「……みんながみんな、道を間違えずに歩けるわけじゃないよ」

「……引き返せないトコまで行っちまったら、もうどうしようもねえだろ。でも、そこまで行くまでに止めてくれるヤツだっているはずだぜ。耳貸さなかったのはそいつだろ」

「……あたしだって遅刻したり、寝坊したり、はたまた異世界に来て就職したり……これが正しい道かって言われると分かんなくなるよ」


 異世界から来た甲斐は、最初は通常通り消滅させられようとしていたのだ。

 シェアトも消滅するのが正しい道だとは思わなかった。




 しかし、『正しい道』とは甲斐が元の世界へ早く戻る事なのだろう。

 そうなれば、今、甲斐もまた『道を間違えている』となってしまう。

 



「たまたま、その間違えた道が誰かを傷つけてしか進めないのかもしれないね」



 目を逸らしたのは、シェアトだった。

 何故、甲斐に真っ直ぐ瞳を見られると責められている気がするのだろう。

 いつも人の目を見て話をする彼女に変わりはないのに。


「そうまでして進んだその先に、何があんのか知らねえが……立ち止まる事も後退する事もしねえヤツはやっぱ好きになれね「ぶわーーーくしょちっくしょう! ……ああぁーーくしょっ!」


 話している途中で、甲斐が手を当てずに豪快にくしゃみを連発すると、鼻をすすった。

 汗が渇き、体が冷えてきたようだ。


「……うあー……。ごめ、なんて?」

「いい加減にシャワーでも浴びて来いって言ったんだよ」


 ぶに、と甲斐の頬をつねる。


「メシなら適当に持って来てやるからあったまってこいや」

「んじゃ、肉多めでね! むしろ肉で!」

「……ったく、しょうがねえなあ」



 愛しい、と彼の目は言った。



 くしゃりと表情を緩めたシェアトは彼女の頬から体に手を伸ばしかけたが、そのまま髪の毛を掻き上げて誤魔化す。



「脂肪の盾か、筋肉の鎧を纏うか。どっちになるか見ものだな」

「あ! シェアトシェアト!」


 背を向けて部屋を出ようとするシェアトを甲斐は明るく呼び止める。


「……なんだよ?」

「シェアトがいてくれて、良かった。……ホント、ちょっと荒れそうだったから」

「主人と苦楽を共にするのが愛犬の仕事だろ」



 軽く手を上げるとシェアトは部屋を出ていく。



 今頃、甲斐はきっとすぐに服を脱ぎ捨ててシャワー室へと飛び込んでいるのだろう。

 あんなにも根拠が無いのに誰かを信じられるのは何故なのか、シェアトには分からなかった。


 鬱屈とした考えが、分かり合ったはずの人間の豹変が浮かんでは心を蝕んでいた。

 



『いてくれて良かった』




 本当は、彼女よりも先に口にすべきだった言葉だ。

 甲斐の部屋に来るまでは他の事など考える余裕も無かったが、今は少し今日の出来事から気を逸らせそうだ。




「それにしても……」


 シェアトは口元を抑え、真剣な表情でシェアトは呟いた。





「……ピンクに黒レース、か……。あいつ、分かってんなぁ……」




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