第九十六話 映像の夢
暑い日が続いていたが、甲斐の自室は適温に保たれていた。
窓はあるが偽物であり、映像で外の天気を映し出している。
もちろん逃亡・侵入防止の為でもあるが、差し込む日差しには熱を感じた。
雨が降ればガラスに雨粒が当たる音も再現されていた。
時間に合わせて日は沈み、季節に合わせて日照時間も変わっている。
ベッドに寝転んだ甲斐は夕焼けが差し込み、ノスタルジーな色へ変わった部屋の天井を見ていた。
エルガに付けられた頬の傷はガーゼに覆われており、随分なものに見えるが然程深くなかった。
SODOMから戻ってから、こんな事で女医であるヴァルゲインターを訪ねる気はなく、甲斐はさっさと部屋へ戻ろうとした。
しかし、早々に引きずってでも治癒室へ甲斐を連れて行こうとするシェアトを振りほどくのには苦労した。
どっと疲労感に襲われながら、自室へ逃げ込もうと、歩きながら堅苦しいジャケットを脱いでいる時だ。
ネオがガーゼを持って甲斐に手を振った。
自然治癒を待つ事が多い切り傷や打撲用の手当の為に用意してある包帯などをヴァルゲインターから貰って来てくれたらしく、甲斐の頬に四角いガーゼを当ててテーピングを施してくれた。
仕上げに優しく頭を撫でるネオは何か言いたげに見えた。
甲斐がお礼を言おうとした時、とうとうシェアトがネオに吠えた。
シルキーは誰の事も目に入らないようでダイナの元へと急ぎ、消えた。
帰りを待ち侘びていたノアに挨拶を済ませると、甲斐はようやく部屋に入り、ヴァルゲインターに借りたスーツを上下ともに脱いでお手伝い天使に渡した。
元のサイズに戻す様に告げ、下着姿で汗ばんだ髪に指を通す。
シャワーを浴びなければと思うが、今日一日の疲れが頭をぼんやりとさせた。
部屋は黄色がかった夕陽に染まり、自分の影が妙に細長く映っている。
ベッドに腰掛けてそのまま倒れ込む。
「ねむ……うあー……天使ちゃん……ごめん、夕飯の時に起こして……」
まだ部屋にいたお手伝い天使にそう言うなり、一度大きな欠伸をして落ちてきた目蓋で光を塞いだ。
体がベッドへ溶け込むような感覚が心地良い。
黒の中に浮かび上がったのは、壁。
それは確かに寝そべっていた部屋の壁では無く、懐かしい匂いのする部屋。
フェダイン魔法学校の太陽組として編入した甲斐に与えられた寮の部屋だった。
驚いて見渡すと、ほぼ座る事の無かった椅子と机までもが急に現れた。
机の上にはビスタニアとウィンダムから貰った箱庭と、壁に貼られているのはルーカスから貰った学校の地図。
ザザッ……
『はぁっ……はぁっ……』
ザザザッ……
荒い息と、ノイズが聞こえた。
先ほどまで白かった壁には乱れた映像が映されている。
いつの間にか部屋は暗くなり、その映像だけがこの部屋に光を与えている。
これは、夢だ。
そう意識した途端、体の自由が利かなくなった。
この映像には見覚えがある。
甲斐がこの世界に現れた場所の近くに、突如として出現した穴。
その中にあったのは一つの指輪だった。
時間は掛かったが仕掛けを解くと、映像が始まる。
これはその内の一つだ。
上下に激しく動く映像。
撮影者が走っているせいだろう。
進むごとに負傷し、倒れている人が映り込む。
白衣、スーツ、武装。
ここがどこかも分からないが、何か良くない事が起きているようだ。
爆発音を録りきれずに耳を塞ぎたくなる高音に変換される。
複数の足音が前方から聞こえる。
味方ではないらしく、撮影者は慌てた様子で左右を見ると開いたままひしゃげているドアの中に飛び込んだ。
ああ、この先はもう知っている。
どうして今更こんな映像を夢に見るのだろう。
何かの下に入り込んで身を隠しているのか、視点が低い。
黒いブーツを履いた足が中の様子を確認するように止まったが、すぐに他の足音へと混ざった。
「(あれ、そういえば……このブーツって……うちの部隊の……?)」
夢は記憶の整理にもなるという。
そのおかげで今まで気が付かなかった点に気付いた。
特徴的な手袋を履いた手を壁に当てたまま何かを待っている。
すると触れている部分に魔方陣が出現し、転送されていく。
映像を見ていたはずなのに、まるでその場にいるように体が引き込まれて行くのを感じた。
何度経験しても慣れない胃が浮くような感覚の果てに、落ち着いた雰囲気の通路へと辿り着いた。
植物に囲まれたそこは深い色合いの木目の壁と、デザインタイルが敷き詰められている。
大きなドアの前へと足が勝手に進む。
夢の中で以前見たはずの映像を再び見ていたはずだが、いつの間にか以前に見た映像の記憶を追体験している。
ごわつく手袋を外して無意識にどこかへ手を触れると、部屋の中へと入る事が出来た。
背を向けて立っているのはスーツを着ている男性だが逆光で顔が見えない。
いや、違う。
映像には映っていなかった。
だから、分からないのだ。
『……た、……か? ここから……げ……』
口をついて出る言葉は擦れ、文にならない。
それなのに、相手は全て聞こえているようで返事をする。
『喚くな、騒がしい。何故来た?貴様、誰の許可を取ってここに入り込んでいる』
以前は擦れて語尾が所々聞こえなかったはずなのに。
これは自分の中で補完したのだろう、人の記憶など曖昧なものだ。
『何故っ……何故……こんな事にっ! このままではっ……!』
女性にしては低く、少年のような声だと思った。
疑惑は確信へと変わる。
この映像を撮り、ここに来たのはこの世界の甲斐だ。
しかし、この世界の甲斐は自分と同じ年齢である。
未来のシェアトやルーカスの映像もあった。
考えている内に視界が回る。
そうだ、この後は確か――
『げほ……がっ……なに、を……』
『無礼を許す気は、無い。私が何をどうしようが……。……が首を突っ込むな。言った筈だ、理解してもしなくても……気は…と…』
『そん……な……あっああああ……ああっあああああ』
床に広がるのは赤色。
聞こえるのは、革靴の響く音。
彼はそっと倒れた甲斐の体に触れ、魔方陣を展開させた。
『……い。もし、違う……があったなら……その時はきっと……るだろう』
濡れた体で飛び起きた甲斐は全身に手を這わせてどこも痛まないか確認してから、ようやく止めていた息を吐いた。
頬の傷が、脈打つように痛む。
月の綺麗な、夜だった。




