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第九十四話 三本の傷痕

 異常に広く、そして綺麗なトイレは甲斐に緊張感を与えた。

 噴水のあるトイレは爽やかな香りに包まれており、もしかすると部隊の自室よりも良い空気なのではと深呼吸をしてしまいそうになる。



 そしてここで問題が起きた。



 ペーパーの設置されていない事に、事が済んでから気が付いてしまったのだ。

 人間を辞めるしかないと思い立った時に小さな美しい天使が二人、どこからともなくトイレットペーパーをうやうやしく掲げて下りて来た。

 

 まるで天からの贈り物のようだ。

 だが、ここはトイレであり、お手伝い天使が手にしているのはトイレットペーパーである。


 何とも言えない気持ちでそれを掴むと天使達はじゃれ合いながら上昇して、姿を消した。

 手洗い場はどうやら最初に見た噴水のようで、最初は温水、次に泡が流れ出し、また温水で流し、手を抜くと風も無いのに水滴一つ無く乾いていた。


 全自動のスライド式のドアを一歩出ると、どこもかしこも白い壁とドアに囲まれており、どちらから来たのか分からなくなってしまった。

 静まり返っている通路からは人の気配が感じられない。


「誰かに聞かないとかあ…。マップとか無いのかな。すいませーん…あれ、鍵掛かってる」


 ノブを回しても、どのドアも開かない。

 ノックをしても返事も無い。


「……確か、まっすぐ行って……右に行って左に曲がったらトイレって言ってたから……全部逆に考えると……?」


 ようやく少し焦りが生まれた。

 シェアトと二人でここに来ていたならば焦らずに探索がてらうろつけただろう。


 現実は違う。


 シルキー・オンズという厄介な先輩と共に来ているのだ。

 トイレに行きたいと申し出た時も、信じられないといった言葉がそのまま顔に張り付いたような表情をしていた。


「女はトイレに行かないとか幻想抱いてるタイプだったのかなあ。ふふん、あたしもたまには人の役に立つもんだ! 現実見せてあげられて良かった!」


 不名誉な濡れ衣を着せられているが、おおよそシルキーはあの舌戦の後にぬけぬけとリチャードにトイレの場所を尋ねた甲斐に驚いていたのだろう。

 あてずっぽうに歩いて行くと、見覚えのあるドアがあった。


「おっ、ここってさっきの応接室じゃない……? まだリチャードとかいるかな?」


 ノックもせずに開ける。


 そこには、エルガが座っていた。

 突然開いたドアに驚いた様子も無く、こちらを振り返らない。


「あー、エルガじゃん。ねえ、みんなってもう行っちゃった?」


 ドアが閉まる音と、甲斐の足の力が抜けるのは同時だった。

 膝を床に落とし、何が何だか分からないまま手を突いて体を支えるがすぐに腕の力も抜ける。

 


「これはこれは……」



 倒れ込んだ甲斐は顔を上げる事も出来ない。

 何か魔法をかけられたのだろうが、解除しようにも何を使ったらいいのか分からない。



「相手の領域で不用意にドアを開けて足を踏み入れる……それがどれだけ覚悟のいる事か分からないか?」



 急に体が起こされたと思えば、ドアの横の壁へ背中から打ち付けられる。

 衝撃でむせ込んだが、自由の利かない手足はまるでゴムのように感覚が無い。


 こちらへ歩み寄るエルガは目を細めていた。

 彼の手が、甲斐の髪に触れた。



「……エ……ルガ? 卒業式から思ってたけど、何怒ってんの?」



 髪を束で握り、ぐっと下に引かれた。

 見下すように前に立っているエルガは瞳だけが光を放っているように見えた。


「私は君のような人間にファーストネームで呼ばれるような筋合いは無い。尊敬はされても、馴れ合われるとは……己を何者だと思っている?」

「……痛いよ。あたしの事も、シェアトの事も記憶には無い?」


 髪の毛から手を離したエルガは甲斐の頬に手を添えた。

 その指は適温の部屋にいたはずなのに、まるで真冬の外にいたように冷たく、痛いほど冷え切っている。


「フェダインに在学中、確かに共に過ごした者もいた。だが、そんなお遊戯は学校内だけの話だ。なんの地位も名誉も無い者と何故このSODOM後継者の私が笑い合う?」

 

 手入れされたエルガの爪が頬に斜めに食い込む。

 立場が違うと、そう言いたいのだろう。

 そんな事は甲斐にも理解出来た。


「……だったらなんで、あんなに仲良くしてたの。エルガも笑ってたくせに。強がっちゃって。……だったらなんで、毎年帰省しなかったの。なんで、一緒に過ごしてたの」



 何の躊躇もなく、エルガは甲斐の頬にあてていた指を素早く動かした。



 まるでナイフのようにそれは三本の赤い跡になり、やがてむず痒さを感じる。

 細い線は徐々に赤みを増し、仕舞い込まれていた血液がゆっくりと外へ逃げていくのを感じた。


「君を納得させなければならない義務はない。客と言ったが、それは君達個人では無く部隊としてのW.S.M.Cだ。顧客など何千、何万といる。……特殊部隊で殉職者が出る事は珍しくない。君も階級を上げたいか?」



 それは、脅しでは無かった。



 これ以上、余計な事を聞けば間違いなく彼の力は甲斐を壊しかねない。

 それでも空気を読むことに鈍く、好戦的な甲斐が口を開こうとした時だった。


 前にシルキーがドアを壊して乗り込んで来たのだ。

 これはベストタイミングだったといえよう。

 闘気を纏ったシルキーが入って来た瞬間、甲斐の拘束は解けた。

 手足の感覚が戻り、指を曲げたり開いたりしている横でエルガは小首を傾げてシルキーを見ていた。


「……失礼、部下が道に迷ったようでして。弁償請求なら俺宛にどうぞ」

「いや、それには及びません。『もっと頑丈なドア』をと思っていた所でしたので、作り変えるいい機会になりました」

「……行くぞ」

「はいはーい。……エルガ、またね」


 最後まで血走った瞳でエルガを捉えて離さなかったシルキーに甲斐は続いた。

 エルガの返事は聞く気が無いようで、振り返らずに歩いて行く。



 傷ついた頬の血を拭わずに、真っ直ぐ前を見て。



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