第六十三話 笑顔の理由
それから持てるだけの荷物をキャリーケースに詰め込んでいる間、卒業を控えた学校の事が頭をよぎった。
父と母は押し寄せるように入って来た警備隊に護られながら家を出てしまった。
二階の自室からその様子を見ていると、母が泣きじゃくりながら振り返ろうとするのを父が無理に前へと進ませている。
窓ガラス越しに見えた自分はこんな時でも微笑んでいた。
強がりでも、ショック状態でもなく、これは前向きに物事を考えようという気持ちの表れだったように思う。
あまり、ここでゆっくりしていられない。
反政府勢力と戦えるような力も無いのだから。
ナヴァロ家との婚約はとっくに知れ渡っているでしょう。
ならば次に狙われるのは、このブランドワーズ家。
地下には転送装置があり、厳重に鍵を掛けられている。
家族以外が使用できないようにする家は珍しくないけれど、小さな頃は何故か分からなかった。
それは悪用を避ける為で、転送する先の番号の管理も個人でしっかりと行う様に義務付けられていると知ったのは小学校の授業だったけれど悪い人がこの世界に本当にいるのだと最近まで思えずにいた。
開錠し、転送番号帳を開くと、病院や買い物先、そして家族で旅行した場所の番号が目に付く。
三人で一度に入れるようにと大き目の装置を購入した父の気持ちを想うと、目頭が熱くなった。
一番最後のページにナヴァロ家近隣という文字を見つけ、彼が今どこにいるかは分からないが出来る事がこれ以外に浮かばなかった。
『ただ、俺の帰る場所にいろ』
貴方は、そう言いましたね。
「今、参ります……」
× × × × ×
閑静な住宅街は物々しい雰囲気に包まれていた。
豪邸が立ち並ぶ中、一際大きなナヴァロ家自体に侵入警戒態勢が敷かれ、民間警察が多く集まっていた。
流石に野次馬など低俗な行いをする者はいなかったのは救いだ。
通りに一般人はもおらず、どの家もカーテンを閉め切っている。
ここ数日続いていた暖かな日差しは無く、この薄暗い雰囲気を演出するような曇り空が胸をざわめかせた。
「……君は? ここは立ち入り禁止です、速やかに立ち去るように」
魔法視力矯正を行っていないのか、何故か眼鏡をかけた若い民間警察の男性に注意された。
「……サクリダイス・ナヴァロの妻です」
見た目も若く、声に貫禄も無い私を警官は訝し気に見つめる。
不躾な視線も、高慢な態度も気にならなかった。
眼鏡の奥の瞳は暗く、光を飲み込んでおりどこか不気味な印象を持ってしまう。
「……確認して参ります」
正式にまだ入籍をしていないのに、妻だと言い切ってしまった。
ここで中へ入れてもらえなかったとしても、門の前に立ちはだかる警官達を押しのけられるとは思えない。
サクリダイスの姿を探すが、どこにも見当たらなかった。
今頃、保護されているのだろうか。
「……お待たせしました。サクリダイスさん本人へ確認が取れました。まだ、彼は民間警察の本社へおられます」
「あら~! 良かった、彼は安全なのですね~! ところで……中で待つ事は可能かしら?」
ぱあっと笑顔を強めるティティに、こちらに注目していた他の警官の顔が引きつるのを見た。
対峙している警官も、大きなキャリーケースを引いて少女趣味な洋服を着ているせいか、私に対して良い印象を持っていないように見える。
しかし、上層部に直接確認できるという事はこの中では上の立場にいるらしい彼に縋る他に方法は見当たらない。
「……中って……。ここで何が起きたかご存じ無いのですか?」
『信じられない』といった気持ちが伝わってくる。
「いやだ、知っていますわ~。中はまだ、現場検証などでお忙しくて?」
再び警官が上層部と掛け合いに場を離れた。
これで本当に家に入れて貰えなかったならば、警官達と共にこの場で主人の帰宅を待つしかないだろう。
「……どうぞ……。ただ……現場となった一階部分は入らないで下さい。今からご案内する二階の部屋からは出ないようにお願いします」
「まあ、ありがとうございます~! 雨も降りそうだし、どうしようかと思いましたわ~」
カラカラとキャリーケースの車輪が周る音がよく響く。
アプローチの床はレンガで、抵抗が大きく上手く引っ張っていけない。
溝に車輪が取られ、引っ掛かってしまった。
旅行先でも悪路の際は父が荷物を持って運んでくれたので、経験したことが無い。
「お持ちしましょうか?」
「お気遣いありがとう~、でも大丈夫、ですっ!」
両手で本体を抱きかかえるようにして持ち上げ、そのまま警官の背中を追いかける。
前が見えないので急に立ち止まられては大変だ。
足音を合わせるようにして歩いて行く。
「……中は荒れています。それと……あまり、見ないようにして下さい」
階段を上がる最中にちょうどリビングルームの大扉が開いた。
現場検証を行っていたのか、どやどやと警官達が出て行く。
忠告されていたのに、中を見てしまった。
代々当主の写真は床に散らばり、魔法攻撃の爪跡が至る所に残されていた。
昨夜、今日という日への期待で中々寝付けぬ夜を過ごしていた時にこの家では凄惨な事件が起こっていた。
この残酷な現実を、誰が想像出来ただろう。
豪華なシャンデリアも本来知る事の無い床へと転がり、焼け焦げたような跡も残っている。
「ティティさん……! 参りましょう」
警官の声に引き戻された。
階段を上り切るとじんわりと汗が滲む。
汗をかいたらすぐに着替えないと落ち着かない性分だったが、今はそんな気にもなれなかった。
ゲスト用の寝室に通され、鍵を渡される。
「明日の朝まで、恐らく警官が中にいます。落ち着かないと思いますが……お許しを」
「いいえ、私が無理を言って入り込んだのですもの~。……警官さん、ご親切にありがとうございました~」
「……ご婦人、貴女は……貴女は強いお人ですね。こんな状況でも、笑顔を絶やさない。しかし、普通の人から見ると些か不安に感じるでしょう」
「そうなのかしら? ……警官さん、これでも私怒っているんですのよ。初めてだわ……誰かを憎いと思ったの」
彼の緊張が伝わってくる。
私は本当に、笑えているのでしょうか。
「でも、この怒りは私の物にしてはいけないの。私の役目は全てを受け入れて笑っている事ですわ」
「きっと、私は貴女を忘れないでしょう。若くとも誇り高い貴女を。ナヴァロ家の今後の発展を、心よりお祈り申し上げます」
ぐっと唇を噛んだ警官の瞳に、初めて人としての感情が宿ったように見えた。
一礼をして部屋を出て行ってしまう警官を見送る際に、ティティは慌てて引き留める。
「お名前を、お伺いしておりませんでしたわ。私も、貴方を忘れません。見ず知らずの私を門前払いせずに、真摯に対応して下さった貴方を!」
「……ブ……レインです。ブレイン・イレブン。……語呂が良くて、覚えやすいでしょう? ……何があっても動じない貴女を私も目指しましょう」
そう言って去って行った彼のその後は、分からない。
目標とされるような人間ではないが、それは今までの自分が間違っていなかったと大きな声で言われたようで未だにこの時の感情を忘れる事が出来ずにいる。




