第六十一話 ティティの婚約
「……素敵なパーティで窓ばかり見ていたからかしら。あの人の方から話しかけてくれたのよ」
「ええ~! ナンパだよ! ナバロ!」
「あらあら、でも……私が余計なことを言って怒らせてしまったの~」
「……父はその頃から神経過敏なんじゃないですか?」
「まあ! ふふ、謝ろうと追いかけたんだけど……転んでしまって」
甲斐は段々と、ティティの性格を掴めてきたように思う。
「そこで、立ち上がって……少し話したら付き合うことになったのよ~」
「そ、そこもう少し詳しく聞けないですかね!?」
「恥ずかしいもの、許してちょうだい~!」
てんで中身が分からないが、顔を赤くして頬を両手で包むティティのこの純粋さをサクリダイスは守り続けてきたのだろうか。
「それで……そこから交際が始まったのですか?」
「そうねえ……。その数分後にはそのパーティで婚約宣言をあの人がしてくれて……私も何も聞いてなかったから驚いたわ~」
甲斐がむせ込み、そして飲み物を床に噴き出した。
ビスタニアは背中を叩いてやりながら、飲み物はしばらく口にしないようにしようと思った。
ティティはただ、うっとりとその夜の事を思い出しているようだ。
× × × × ×
「……外に出た事が無いのか?」
突然話しかけられ、驚いて隣を見ると信じられなかった。
見事な銀の髪は肩より長く、家紋の入った金細工の髪留めを使い、首の辺りで一つに纏められている。
頭一つ分以上身長の差がある青年を見上げると、切れ長のグレーの瞳は窓の外を見続けていた。
光沢感のある生地で仕立てられたダークグリーンのスーツは艶やかで、胸元を彩っているスカーフもシックな印象を助長させている。
「……耳が聞こえないか? そうでないなら、女に無視をされたのは初めてだ」
誰か分かったが、頭が付いて行かない。
何をどうしたら失礼にならないのか、今までしてきた立ち居振る舞いが本当に正しく、マナーや話し方をちゃんと自分はマスターしているだろうか。
「無視だなんて……! そんなつもりは無かったんです~!」
「口が利けない訳では無いのか。……何をそんなに腑抜けた面で見ていた?」
何を、と言われてもこの明るい会場から見える景色など真っ暗でせいぜい宙に浮いている魔法照明ぐらいしか見えない。
他は離れた所にある住宅街の明かりや、この会場の窓を一枚隔てた先にある庭に降り積もった雪ぐらい。
同じ場所から同じものを見ているというのに、彼はとても不思議そうに、そして何かを見つけようとでもしているようにとても真剣に窓の外を睨んでいる。
「特に、何も見えませんよ~? それに、ふぬけた顔は元々なんです……」
「……では何故、笑ってるんだ」
異形の物を見るような表情をしているのを、窓ガラス越しに見つめる。
何かを言う度に、自分の声がこんなに変な音だっただろうかと不安になってしまう。
「……私、笑ってました? ふふ、やだ~。どうしてでしょうね~?」
「……はぁ、楽しそうだな。学生か?」
「そうですよ~、春に高校卒業なんです~。ナヴァロ様ですよね、ご活躍のお噂はかねがね……」
大きな舌打ちが聞こえた。
舌打ち自体、初めて耳にする物だった。
最初は何の音なのか分からなかったが、サクリダイスの持つ雰囲気が一気に苛立ちを含んだ物に変わったのでようやく理解出来た。
「お前も同じだな、話しかけた俺が間違いだった」
そう言って結局視線が重なる事の無いまま、彼は人の波へ紛れてしまった。
何が逆鱗に触れてしまったのか分からないが、とにかく怒らせてしまった。
あれだけ両親に昔から失礼をするなと言われていたのに。
謝らなければ。
しかし、何を?
考えが纏まらないまま、体は動きだしてしまった。
見知った顔の多い中を早足で歩きながらサクリダイスを探す。
ダークグリーンのスーツを見つけ、駆け寄るとヒールが上手く床を踏まずにバランスを崩してしまった。
「ひっ……!」
足元で急に転んだティティを笑う声が聞こえる。
仮にも名家や有名企業の代表たちが集まるこの会場でこういった振る舞いをする事自体、考えられないのだ。
「……転ぶのも楽しそうだな。床が好きか?」
シャンパングラスを持ったまま、呆れたような顔で見下ろしている彼と、ようやく目が合った。
立ち上がって状況を見れば、彼の周りには世界中の美女をこの場に終結させたように思える。
美しさに全ステータスを振ったような女性たちは出で立ちも見事で、ドレスも体のラインは出ているが露出は少なく、上品さと高貴さを全身で表現している。
彼女達は悪口こそ言わないものの、軽蔑するような視線と今にも笑い出しそうな口元がティティに振り被っていた。
「あの、私、何かしてしまったようなので謝りにと思ったのですが転んじゃいました~」
へらりと笑ってみたが、サクリダイスは何を言う訳でも無く飛び交っているお手伝い天使の一人にグラスを返した。
再び背を向けてしまった彼の邪魔をしてはいけない気がしてゆっくりと後退する。
「……おい、俺に謝るんじゃなかったのか? 何処へ行くつもりだ?」
向き直ったサクリダイスの口元は意地悪く斜めに上がっていたが、もう怒っているような雰囲気は無かった。
周りにいた女性達に何も言わず、ティティの目の前に立つと頭からつま先まで視線を這わせる。
「……その髪は、自前か? その色だと合うドレスの方が少ないだろうな」
燃えるような夕焼け色の髪は確かに着る服を選んでしまう。
通っている有名店の魔法理美容室であれば髪色を変える事は容易だろう。
だけど私は、この髪色を気に入っていたの。
親族に一人もいないこの橙はよく褒められたから。
私が、私でいいのだというちっぽけな自信を持たせてくれるから。
「そうなんですよ~、この色に合わせたドレスを選ぶのが大変で~。あっ、それより……さっきは何か失礼を……」
「もうその話はいい。……お前のその笑い顔以外を見てみたくなった。名は?」
笑い顔以外、と言われても思い当たらない。
誰に仕込まれた訳でも無いのだが、悲しい事も辛い事も全て少なく短い方が良い。
そんな風に想い続けたせいかこの表情が定着して中々離れてくれないだけだから。
「ティティです~。ティティ・ブランドワーズと申します」
「交際している男がいるなら今夜別れろ、想い人も明日までに忘れろ。今後、お前の視界に入る男は俺だけだ。いいな?」
今の今まで恋をした事も、甘い熱を感じた事も無かった。
顔を覗き込まれた時、病のように心臓は脈打ち、血液は熱を帯びて体を駆けていく。
「……いつも、いつもお傍にティティを置いて下さいね」
「それは約束できん。ただ、俺の帰る場所にいろ」
その直後、会場にいる人々の注目を集めてサクリダイスは婚約を宣言した。
数歩後ろに立っていたティティが見たのは、顎を外したように口を開けた両親が持っていたグラスを手から放した瞬間だった。




