第五十七話 サクリダイスと甲斐
階段を降りる足が鉛のように重い。
いや、まるで大きな足かせをつけられているかのようだ。
とうとう一段一段に粘り気の強い何かが置かれているのではないかという錯覚まで起きて来た。
その後ろでは甲斐があまりにもスローペースなビスタニアに若干顔が引きつっている。
今のビスタニアよりもご老人の方が早く階段を降りて行くだろう。
もたついていると、ビスタニアの背後から鼻歌が聞こえ出した。
一体何がそんなに彼女をご機嫌にさせてしまうのか理解出来ない。
ほんの数分前までは天国にいて、幸せを噛み締めていたはずなのに。
何の予兆も無く地獄の門が開き、一緒に天国で寄り添っていたはずの恋人が自分の腕を掴んでその門へと迷わず走り出したのだ。
二年近くも一緒にいて、どれほど父が我々の常識の中にいないかを理解していないのだろうか。
休日は家族でバーベキューをして、マシュマロを得意げに焼いてくれるような人物ではないという事も彼女は知っているはずなのに。
冗談を飛ばし合ったり、家族で笑い合った記憶はない。
そんなものはドラマの世界であって、現実には存在しないと本気で思い込もうとした時期もあった。
しかしパーティに出る度、他の家族の在り方を見せつけられる。
結局、おかしいのは我らがナヴァロ家なのだと思い知らされただけだった。
後ろでハミングを奏でる彼女に一体全体どういうつもりなのかと聞いても、きっと無駄だろう。
甲斐は、これだからこそ甲斐なのだ。
父と会わせたくないのは、父が厳格だからというのもあるがそれだけではない。
あまりにも問題が多すぎるのだ。
せっかくここまで上手くいっていたのに、張り切ってお洒落をして、土産まで持って来てくれた大切な人に嫌な思いをさせるのが嫌なのだ。
あの父親が『やあよく来たね、皆で夕食にしようか』などと笑顔で迎え、息子とその恋人を見ながら嬉しそうに笑い、ワインを嗜む訳が無い。
どうせ嫌味か煽り文句しかあの口から出て来ないのだ。
それも人の神経を逆撫でし、不快感を強め、人の表情が変わるのを楽しんでいるのだから最悪だ。
世界の防衛機関御頂点に立つ男だ、自分より下の者か対等の者しか存在しないのだから口を返してくるような人間は想像できないだろう。
だからこそ、立場を利用しているようにも思えて尚更嫌悪感が生まれるのだ。
だが、甲斐に対しての暴言は見過ごすわけにはいかない。
どんなに愚弄されようと自分の事はいい。
もう良いのだ。
確かに地位も立場も無く、何の資産価値も生まずに生かされて来ただけの人間は父からすればゴミかもしれない。
だが、ゴミと呼ばれようが感情はある。
揺さぶられるような気持ちも、怒りに震えた夜も、誰かを想う愛しさも。
これまでに多くの経験をしたのだ。
大切な者が出来たのだ。
臆して守れぬのならば、それは正にゴミだろう。
「……大丈夫、だからな。俺がいるから」
最後の段を降りた時、甲斐に伸ばしたその手は震えていた。
格好悪いと、思った。
口でどれだけ虚勢を張ってみても、どこかしらでボロが出てしまう。
ビスタニアが安心させようとしてくれているのを甲斐は感じ取っていた。
大丈夫じゃないのは血の気が引いている彼の方に見える。
そっと手を握ると、やがて震えは止まった。
「緊張、ほぐれたみたい。ありがと、ナバロ」
「いや……。……変な気を遣うな、普段通りのお前でいてくれ」
守るからな、と口を突いて出そうになったが飲み込んだ。
リビングのドアをノックするが返事は無い。
前を見たまま押し開くと、日が暮れ始めた外を見ているサクリダイスがそこにいた。
手を後ろで組み、しっかりと伸びた背筋。
ビスタニアと違い、体つきは厚みがあるように思えた。
腰まで伸びた銀の髪を、細く黒い筒状の髪留めで通すように留めている。
ただ立っているだけで気迫を感じるのは人柄が滲み出ているのだろうか。
甲斐はすぐに姿勢を正した。
「お邪魔してます! カイ・トウドウです!」
顔だけを動かして目で甲斐を捉える。
切れ長の瞳と感情を読み取れない表情。
友好的な感触は得られなかった。
フェダインに入学した最初の冬期休暇を甲斐は思い出していた。
無理矢理この世界の日本へ飛ばされると、本当の両親と瓜二つ…いや、この世界でいう本人達なのだが、彼らに見つかり、あれよあれよと家へと連れ込まれた。
そもそも日本に飛ばされたのは、この世界の甲斐と鉢合わせをさせ、甲斐の存在を消してしまおうという計画だった事を後から知る事になる。
もう一人の甲斐はもうこの世界にはおらず、行方不明となっていた。
その『異世界人抹消計画』に気が付いたルーカスがシェアトとエルガを連れて甲斐を迎えに来てくれたのだ。
そしてその頃、甲斐はこの世界で初めて見るテレビでビスタニアの父を見ていた。
当時はまだビスタニアはつんけんとした態度を取っていたが、サクリダイスを見た瞬間に甲斐はビスタニアがテレビに出ていると瞬間的に思った。
外見も、体格もこうしてみるとあまり似ていない。
やはり親子というのは雰囲気が似ているのだろうか。
そして、甲斐の暗殺命令を出したのは他でもない防衛長であるビスタニアの父からの命令だった。
こうして直接対面するのは初めてだ。
彼はもちろん、甲斐がどういう存在なのかもとっくに知っている。
卒業するまでの間、甲斐の動向を見張る監視役を生徒に頼んだりとやはり良くは思われていない事を甲斐は知っていた。
「……誰かと思えばこれはこれは。家にネズミでも入り込んでしまったかと思ったよ」
ようやく体全体をこちらに向けたサクリダイスは、口元だけが不自然に笑っていた。
むしろそれ以外の部分は全く笑っていない。
瞬きをすれば一瞬でこの笑顔は消え去ってしまいそうだった。
しかし、サクリダイスが笑顔を浮かべている事をビスタニアは信じられなかった。
もしかしたらこのまま挨拶が終わるかもしれない、などとふざけた予想をしてみる。
「君は隙間に入り込むのが上手いようだな」
「……へ?」
「異世界からこの世界へと入り込み、学校長であるあのランフランクに取り入って……次は防衛長である私の息子に取り入ったか……。ネズミというよりも、寄生虫のようだな。ん? それとも埃か?」
ひゅっと、息を呑んだのはビスタニアだった。
顔に一瞬で熱が上がる。
それに瞬時に気が付いた甲斐が小さくビスタニアの足を一度叩いた。
口を出すな、という事だろうか。
「お会いしたかったです。どうも、死にぞこないです。埃ちゃんでもいいですけど、カイちゃんって呼んで下さっても構いません!」
返事の代わりにサクリダイスの笑顔が立ち消えた。
ゴングの音が、ビスタニアの頭に響いた。




