第五十四話 暖かな一日
「ね? ビー君、私の予感は当たったでしょう~?」
細工の施されたグラスに注がれているのは暑い夏の日にぴったりなレモネードだった。
手作りなのか、蜂蜜の甘味とひんやりと冷えた酸味の強いレモネードは絶品で甲斐は思わず飲み干してしまった。
不思議なものでその瞬間にまたコップの中は一杯になり、声を出さないよう堪えるのに苦労した。
「予感……?」
ビスタニアはなんの事を指しているのか分からず、眉をひそめた。
「去年帰って来た時に気になる子がいるんじゃな~い? って聞いたじゃな~い。良かったわね、初恋って実らないらしいから……。うふふ」
「えっ、去年って……えっ! マジでビー君!」
不利な状況だと判断したのか、甲斐に突っ込む事もせずに花柄の皿に並んでいる焼き菓子を手に取った。
かなり有名な店の物で、持った途端に湯気が上がった。
香りも高く、菓子をそんなに好まないビスタニアでも一口食べるとかなり美味いと感じた。
「これね、カイちゃんが持って来てくれたの。せっかくだもの、一緒に食べようと思って。ありがとうね」
「あ、いえ! とんでもないです! ……はあー、ナバロのお母さんすっごく素敵だね。優しいし……!」
「あらあら! 遠慮せずにたくさん食べてね。私一人じゃ食べきれないから~」
「あ、そっか。ナバロは一人っ子なんだっけ、あたしもそうだけど。お父さんは忙しいんだもんね……」
出来れば父の話は出したくなかったのだが、甲斐に悪気が無いのは分かっている。
ティティは顔色を変えることなく、二人の様子を微笑みながら見ていた。
「そうなのよ、うちの人は忙しいから~。よくなんの連絡も無くふらっと帰って来るんだけど結局呼び出されて仕事に行ってしまうのよね」
「そうなんですか。じゃあ、少し寂しいですね」
もう自室へと甲斐を連れて行きたいのだが、母が楽しそうなのと甲斐も人見知りをするような性格ではないので楽しんでいるのだろう。
初めて甲斐の性格に対して不満を抱いた。
「ところで……どうしてビー君をカイちゃんはファミリーネームで呼んでいるの?」
小首を傾げて微笑むティティが悪魔に思えた。
「……こいつの癖で……。会った時からファミリーネームが上手く発音できないらしいんです」
「……ビー君! カイちゃんは貴方の恋人でしょう?」
「は、はい……。そうです……」
「本当に好きなのよね? 大切なのよね?」
真剣な声で、笑っているような細い瞳でティティは息子を見つめる。
隣に座る甲斐をちらりと見た後、ビスタニアは姿勢を正して母に向き合った。
「……はい。俺にとって本当に、大切な女性です」
「……だったら、カイちゃんを『こいつ』なんて呼び方しちゃいけないわ。カイちゃんはきっと、ビー君への親しみを込めてニックネームとしてナヴァロと呼んでくれているのに」
思い返してみても、甲斐の名前をビスタニアが呼んだ事は無い。
いつも『お前』や『おい』と呼びかけていたがそれに対して甲斐は不満を抱いた事も無かった。
「……ごめんなさいね~、ビー君がこんな調子で。……二人の間に余計なお節介かもしれないけれど……でも、私は二人を応援してるわ。こんなに可愛い女の子ですもの~」
「い、いえ! 全然……その、あたしは……普通の家柄ですし……、マナーとか全然分からないです。でも、必要な事は覚えます。よろしくお願いします」
「ふふ。家柄なんて、関係無いわ。同じ世界で生きている人間同士よ~。人との関係に礼儀があれば、それでいいと思うのよね~。マナーだって、最初からマスターしている人なんているはずないもの。ねえ、ビー君」
異世界から来た事を流石に言い出せなかった事に、甲斐の胸は痛む。
嘘をつくのは苦手だ。
だけど、言わない方がいいこともあると学んだ。
ティティは『同じ世界で生きている人間同士』と言ってくれた。
それだけで、今は十分だった。
ビスタニアはティティから言われた名前の件を反省しているようだが、この場で名前を呼ぶ勇気は無いようだった。
「……そろそろ、一度部屋へ行こう。案内する」
声を掛けると、甲斐は一つだけ焼き菓子を手に取って丸ごと口に放り込み、レモネードを飲み干した。
今度はグラスの中はちゃんと空になった。
立ち上がった二人にティティも合わせて立ち、ビスタニアへ一歩近づいた。
「……カイちゃん、泊まっていくのかしら?プリンセスルーム、一応綺麗にしておくわね」
「……あ、いやっ……!」
小声で話す親子を横目にそっともう一つ焼き菓子を口に頬張ると、口の中の水分を奪われてしまった。
丁度いいタイミングで甲斐のグラスが満たされたので、それを流し込んで胸の辺りをとんとんと叩いて下へ下へと促す。
「……ほら、行くぞ。……カイ……」
余りにもぶっきらぼうな声で名前を呼んだが、静かなこの部屋ではよく聞こえた。
ニヤリと不敵に笑った甲斐は可愛らしいビスタニアの隣に行くと、ティティに一度お辞儀をして付いて行く。
広すぎるリビングルームに立って二人を見送ったティティは、昔の自分を思い出していた。
ソファに腰かけ、差し込んで来る外の陽気を感じながら思い出すのは同じ季節。
普段ならば空いた食器はすぐにお手伝い天使が片づけてしまう。
だが、今日は片づけに舞い降りて来た彼らをティティは首を横に振って断った。
まだ、幸せなこの時間を終わらせたくなかった。
空いたグラスの中にも光が入り込み、ガラスのテーブルの中へと溶け込ませていく。
「とても、良い日ねぇ~……。そして、とっても……あたたかい日だわ……」




