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第五十二話 ナヴァロ家へ行こう!


 その日は朝からビスタニアの顔色は優れなかった。


 何をするにも憂鬱で、シャンプーとボディソープを間違え続け、髪を乾かすのを忘れ、日課にしている朝のコーヒーも自分で沸かしたが何故かコップに注がずにそのままシンクへと中身を流し込んだ時にはもう駄目かもしれないと感じた。


 今日は消化しなければならない休みが溜まっていたのと、甲斐が夏休みに入ったらしいので予定を合わせた休日だった。

 普段であればとにかく早く会いたくて、何もかも時間を短縮してすぐに家を出て待ち合わせ場所へ続く転送装置へと走るのだがそうもいかない。



「……はあ……胃が痛い……」



 あと五分程で出なければ間に合わないのだが、どうしても気持ちは晴れない。

 何故かというと、甲斐をとうとう実家であるナヴァロ家へ招待するからだ。


 友人すらも呼んだことの無い、閉鎖的なあの家は何の為にあるのか分からない部屋数と妙な緊張感、そして息が詰まりそうな沈黙。

 そんなイメージしか浮かんでこない。




 あの家には閉じ込められているようにも見える母がいる。




 恐らく本人はそんな風に思った事は無いのかもしれないが、いつからかどんな時でも綺麗に着飾る母が動く人形のように思えた。

 童顔で、とても若く見える母もまた名家の出であり、苦労を知らぬのだろう。

 心すらも少女のままのように思える。



 『少女婦人』



 パーティに出るとそんな陰口が聞こえていた。

 本人もきっと知ってはいたのだろうが、ふふふと笑うばかりでそれ以外の表情を今まで見た事が無い。

 気難しい父とどのように出会い、どのように惹かれたのか、はたまた家同士の付き合いでなるべくしてこうなったのかは定かではない。


 かといって父が母に特別優しい場面も見たこともなかった。

 馴れ初めを聞くなどといった恐ろしい行為もしたことがないので分からないが、然程興味は惹かれない。

 


「時間、か……」



 まだ暑い夏は始まったばかりだ。

 薄手のワインカラーのシャツに黒色でラフなドット柄のネクタイを締め、白のパンツを履くと大き目のバックルが顔を出す。

 黒の革靴に履き替えて部屋から転送をかける。



 思えば、自分は甲斐の事を案外何も知らないのだ。



 家族構成も、前の世界の家族の事も、いたはずの友人についても。

 この世界に来てから、色々あった。

 短い期間といえども、それは友人達との結びつきを強くするのに十分なほどに。


 聞く機会が無かった訳ではない。


 フェダインにいた頃は、魔法を使った事が無い彼女の為に補助が出来る魔力器を借りる為に両親との記憶を担保にしたらしい。

 それもあってか誰もあまり彼女の記憶に触れなかったように思う。

 だが、卒業する前に魔力器を返還していたのだからもう聞いてもいいだろう。


 おしゃべりなように見えて、自分の事をあまり話さない。

 変なヤツだと思ったが、そういえばあいつが変なのは最初からだ。 



「……8762845」


 

 実家から少し離れた場所に待ち合わせ場所を指定した。

 久しぶりに会うのだ、顔を見て、手を繋ぎながら歩いてもいいだろう。


 彼女について、聞いてみてもいいだろうか。

 異世界から来たという事情を隠し通している甲斐の友人、クリスとフルラの方がもしかしたら、もう知っていることがあるかもしれない。


 今更踏み入ろうとしても、嫌がらないだろうか。

 話したくない事を聞いてしまわないだろうか。



「……まだ、来てないか」



 直線の道の両脇に立ち並ぶ、大きな家を眺める。

 恋人の家に行く、というのは緊張するだろう。

 盾になってやれるだろうか。


 基本的に父は仕事で家を空けている。

 どう連絡したらいいのか分からず、母には何も言っていないが歓迎してくれるだろうか。


 母が息子の恋人にどういった反応をするのか、想像がつかない。

 友人ですら家に招待したことがないのだ。

 誕生パーティだって、行ったことなどない。



「ナーバーロー!」



 声に合わせて三歩で後ろから抱き付いて来た甲斐は熱かった。

 振り向くとさっと反対側に顔を隠してしまう。

 


「気のせいか……」

「まさかの錯覚! ワタシハココニイルヨ……」



 驚いて前に回り込んで来た甲斐を覆い被さるようにして抱きしめる。

 普段は洗い立ての髪の匂いがするのに、今日は石鹸を甘くしたような香りがした。



「……なんだ? 知らない匂いがするな」

「……えへ、コロンという物を買ってみたのだよ! どうかね!?」



 勢いよく顔を上げて、くるくるとその場で回る彼女は露出が多く動きやす恰好を好むはずなのに雰囲気が全く違っていた。


 丈の短い白い薄手のカーディガンは袖口と裾、襟元の切り口はスカラップになっており、半円が波のように連なっている。

 ネイビーのワンピースは質の良さが分かる生地で、ウエストの絞りも控えめだがスカートは上品に広がっており、短すぎず、長すぎずといった裾からは膝が見え隠れしている。

 歩く度に揺れる花の刺繍がされたストッキングは、民間警察の制服で駆け回る彼女のスカートと靴下の間に出来た日焼けを綺麗に隠した。

 靴は大人の女性らしいクリーム色のパンプスは歩きにくそうだが、ヒールはしっかりとした支えになっている物を選んだようだ。


 いつもは直線的なストレートでセンター分けの甲斐はクリスマスに贈った髪留めでハーフアップにしており、綺麗にまとまっている。

 毛先は全て軽く内に巻かれており、ここまで来ると自分でやったとは考えにくい。


「クリスに相談したら、張り切って朝早くから手伝ってくれたんだよ! 上品に見える!? ああー薄汚い言葉を口にしたくて堪らない!」


 赤い小さなポシェットを下げた彼女の手には紙袋があった。

 いつかに言っていた、手土産だろう。


 その気遣いが嬉しくて、思わず口元を押さえてしまった。

 きっと今、顔は赤くなっているだろう。


 彼女は実家を気に入ってくれるだろうか。

 いや、気に入らなくてもいい。


 辛気臭いね、なんてふざけた言葉を吐きながら楽しそうに笑って欲しい。

 つられて俺も笑えるような、そんな時間にさせてみせるから。


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