第四十九話 ファーラとドッペル
「どこ行ったんだ……? まさかシルキーの奴が結界外した時に逃げてったんじゃねぇだろうな……」
「どうだろね、そうだったらガキジジイに責任とって地の果てまで追いかけてもらお」
不思議な歌が聞こえた。
どこか懐かしいようなメロディを一定の調子で誰かが歌っているらしい。
二人の聴力では拾いきれないが、音声ガイドがファーラの声を識別したようだ。
「……ファーラさんが歌ってんの? 歌、うまいね」
「……あっちから聞こえるな。カイ、あっちに曲がれ」
甲斐の髪の毛を両手に持っているシェアトが右手をくいくいと引いて案内する。
この道は来たばかりの二人でも覚えがあった。
ファーラの花屋が見える。
歌声は大きくなっていた。
中を覗くと、オープンになっている入り口に背を向け、変わり果てた床に足を横にして座るファーラの
姿があった。
緑色のエプロンの蝶結びが、リズムを取るようにゆっくりと左右に揺れる体と同じ動きをしている。
「ともーにー……あるくみちはー……きっとー……」
「いたいた! 御用だ御用だ!」
「あたたかなー……ひかりーさす…ー…」
綺麗な声で歌うこの曲にシェアトは覚えがあった。
幼い頃にクロスと並んで眠る前に母が布団を叩きながら歌っている、懐かしい夜が思い出される。
この歌を聞いた覚えが無い甲斐ですら、やはりどこか懐かしい気持ちになった。
シェアトは甲斐の肩を支えにして背から下りたが、まるで二人に気付いていないように歌い続けるファーラは振り向かない。
ドッペルの姿が無いのは何故だろう。
「おい……現実からは逃げられねぇぞ。続きは檻の中で歌うんだな」
脇を固めるようにして二人はファーラへ近づいて行く。
そして肩を掴んだシェアトが身を強張らせたのと、甲斐の目が丸くなったのはほぼ同時だった。
頭から冷水を被ったような冷気と、現実を拒みたがる頭が異常事態だと警報を鳴らす。
ファーラの膝の上に頭を乗せて、光の無い瞳でどこを見ているのか。
ドッペルの投げ出された足は真っ直ぐ伸ばされている。
彼の腹部に大きく、中で爆ぜたような傷口があった。
鮮血、というよりは少し黒ずんだ血がぬらぬらと照っている。
血だまりの広がりからして、彼はとうに終わってしまったのだ。
「……ファーラああああああああ!」
びりびりと鼓膜が震えた。
そう叫んだ甲斐は拳を燃やし、ファーラの首を掴んで押し倒した。
振り被った拳が、彼女の顔目掛けて下ろされようという瞬間。
二人の間に割って入ってのはシェアトだった。
咄嗟に片手で拳を受け止めたが、一瞬にして手首が反り返る。
激痛が走ったが、熱は痛みを通り越して感覚すらも奪った。
「……カイ! 俺達は民警だ! 容疑者といえど、自分の感情で傷つけんな!」
「……シェアト……! ごめん……ごめんね……手、ごめん!」
「気にすんな! めっちゃいてぇけどな!」
「あのー……ゆうひをー……ながめたー……」
その状態のまま、ファーラは唄い続けた。
押し倒された際に割れて床に散らばっていた花瓶の破片が刺さったのか、エプロンの下のシャツがみるみる赤く染まっていく。
「お前の気持ちも分かる、俺だって……俺だって殴ってやりてぇ! でもな、それじゃダメなんだよ……!」
辛そうに歪めた表情のシェアトから甲斐は無理やり視線を逸らし、ファーラに問いかける。
喉が渇いて、むせ込んでしまった。
「……ファーラ……、ファーラ! ドッペルに、何したの……!」
「てをー……つないでー……うみのー……おとをきいたー……」
ファーラの意識は、もうここには無かった。
甲斐はただ、茫然としていたがシェアトが応援を呼び、駆けつけた警官達に拘束され、ファーラは引きずられるようにして連行されて行った。
彼女はこの町で過ごした幸せな日々を思い返していた。
気の良い者達と、ゆっくりと同じような日々を過ごしながら会話を楽しんだ。
花が売れない月もあったが、そういう時は皆で助け合った。
それはこの小さな町では当たり前のことだった。
店を開けると巡回しているドッペルがいつも少し照れ臭そうに敬礼をしてから挨拶を返す。
夕方の巡回では、必ず一つ何か甘いものを持って来てくれるのだ。
お礼がてらにハーブティーを出すといつも頬を赤らめて随分時間をかけて飲んでいた。
学校終わりに花の匂いを嗅ぎに来る少女に一輪プレゼントした時に見せた、あの表情は忘れられない。
大人になると、あんな風に宝物を見つけたような表情が出来なくなるのだ。
仕入れた花を毎日近所の老夫婦が買ってくれた事。
そして二人、窓辺に飾って楽しんでくれているのを野菜を買いに行く時にいつも彼らの部屋を見上げて微笑んだ。
町長から会議で店を構える者達が召集され、反政府勢力への協力を提案された日の事は今もはっきりと思い出せる。
この町で過ごしていく子供たちの為、そして未来にこの町を背負う者へ渡せる何かを残した方が良いという結果が出た瞬間。
これはチャンスだと思った。
緩やかに失速しているこの町を、故郷を、残す為には仕方ない。
今更どこへも行けやしない。
そんな老人も多いのだ。
ここで生きていく。
そのためには何か、何かしなければ。
付き合ってみると、反政府勢力の人間も案外気の良い人間が多かった。
それこそ最初、薬を家に運び込んだ夜は眠れなかった。
いつ民警が乗り込んできてしまうかと、心配でたまらなかった。
陰でそんな事になっているとは露知らず、毎日町の平和を守っているつもりのドッペルが不憫に思え、彼の顔を見ると罪悪感が押し寄せた。
そのせいで、よく話しかけるようになってしまったのかもしれない。
気付いて 気付かないで
知ってる? 知らないでいて
今、向けられている笑顔は明日には無いのかもしれない。
そう思うと、怖くて。辛くて。
私ひとりじゃ、とても、どうにもできない。
この人も、いつか私を置いて去ってしまう。
この町を、出たい。
そのためにはお金がいるの。
今まで、一度だって悪事を働かなかったわ
だから神様
今だけ、見逃してちょうだい
この町を出たら
残りの人生は善良な人間になってみせるわ
「……ファーラさん……何かの、間違いでしょう?貴女がそんな事……するはずがないですよね……?」
今日は、どうしてしまったんだろう。
何もかも、上手くいっていたはずなのに。
「……どうして、黙っているんですか……? お店ならまた……また、やり直せばいいですよ……。……なにがなんだか、分からない……」
どうして、こうなってしまったのだろう。
どうして、店の中まで入って来たんだろう。
夢なら、いいのに。
この人の中の私は、きっと、純粋で、それでいて、優しくて。
「ファーラさん……お話を、聞かせて下さい……。本官は……そんなに、頼りになりませんでしたか?」
悲しそうな顔をするのは、どうして?
これ以上、この人を悲しませてはいけない。
でも、捕まったら全てバレてしまう。
この人の愛した町を守れなかったと絶望してしまう。
美しい心を持った人の住む町だと言ってくれたのに。
騙すつもりなんて、なかったのに。
「……ファーラさん、何か探しているんですか? まだ、熱を持っている所が多いので……!? ……か、はっ……どうして……?」
ああ、こんなにも引き金は軽いんだ。
女一人の店だから、そんな理由で置いておいた銃が初めて役に立った。
ただ、その反動で肩が抜けてしまったみたい。
こんなに、人が吹っ飛ぶ威力があったのね。
「……ああ、良かったぁ……!」
これでもう、彼の中の私は綺麗なまま。
彼はもう、悲しまないで済む。




