第四十一話 観測者・ミュー
部屋の中はただただ広く、そして全てが満点の星空だった。
地を踏む足の感覚は無く、手を広げて動かせば高く高く昇って行けそうな、そんな空間だった。
浮いているようだが確かに真っ直ぐ歩いて行くクロスにだけ道が見えているのではないだろうか。
足元には闇が広がっており。その中から無数の白い輝きが見えるが一つをもっとよく見ようとすると見失ってしまう。
明るい星を見つけたと思っても、瞬きをした瞬間にどれか分からなくなってしまった。
寒いような暑いような、そのどっちでもないような室温の中で聞こえてくるのは自分の鼓動だけだった。
どこが壁なのかも分からない部屋で、クロスが声を上げる。
「観測機関のクロスです、他社からの依頼ですのでご案内しました! よろしくお願いします!」
「あ、アポとか無くていいの?そんな突撃! お仕事依頼! みたいなノリでいいの?」
どこからか笑い声が聞こえて来た。
それは幼い子供のようで、大人の妖艶な色気を含んだ女性のようなものでもある。
「のうわっ! おばおばおばけお化け! クロスちゃん! お化け!」
甲斐の目の前に先程までいなかったはずの少女が立っていた。
驚いた拍子に後ろに倒れ、そのまま手だけを使って凄まじい速度で後退する。
「ミューさん……突然現れちゃダメですよ。……その動き方の方がお化けっぽいと思うんですが。ほら、この方が観測機関の全て……ミューさんです」
くすくすと笑い続ける少女は甲斐と同じような身長だった。
星の明かりだけで生きて来たのかと思う程に白い肌と、赤い瞳。
同じように白い髪の毛は足首まで伸ばされ、人形の様な顔立ちとよく合っている。
頭にはカチューシャに大きな真紅のリボンが乗せられ、切り揃えられた前髪の下には細い眉が真横に伸びている。
露出の高いロリータ調の赤いドレスにはレースやフリルがこれでもかというほど使用され、露になっている胸元や細すぎる腕と足にはあちこちにあざや生傷が目立つ。
包帯が巻かれている場所も多くあるが、あれはファッションなのだろうか。
ミューはにこにこと笑ってはいるが、靴を履いていない脚も、腕も骨ばってとても健康そうには見えない。
「……あー、病んでる系かな? 初めまして、トウドウ・カイです」
「知ってる。知ってる。うん、ミューが知らないひとなんていない。ミューはずっと、全部見てるから。でも、カイちゃんがどこ行ったのか分かんない。分かんない……ミュー、だめ。ミュー役立たず。ミュー使えない……」
「あっちゃーこれマジでダメなやーつじゃん。怖い怖いもう怖いもん」
甲斐が後ずさるとミューは悲しそうに顔を下に向けた。
「なに、やってんですかホントに! ミューさん、大丈夫。大丈夫ですから。この世界にいたカイさんは別の世界に行ってしまったんですよ、それはミューさんのお仕事じゃないですから」
すかさず甲斐の後頭部を叩いてクロスがミューの前に躍り出る。
迷う事なく彼女を抱きしめたクロスに甲斐は驚いた。
爪を噛み始めていたミューも背中を一定のリズムで叩かれている内に落ち着きを取り戻したようだ。
そして甲斐へまた一度、にこりと笑った。
それを確認するとクロスは甲斐を睨んで詰め寄り、小声で甲斐にまくし立てる。
「いいですか、ミューさんをあまり刺激しないで下さい。彼女は生まれてからこれまでこの部屋から出ずに、寝る事も許されず、休みも無く世界中の人間を観測しているんです。彼女の中で存在価値として見い出しているのがこの仕事なんですから……!」
「り、理不尽じゃない!? あたし別に今何も……って、それ、ミューちゃん可哀想じゃないの?」
「……仕方ないんですよ」
ぐ、とクロスが口の中を噛んだのを見た。
「ミューさん……いえ、歴代の観測者達についてもそうですが……詳細は公にされてないんで知っている人も関係者位ですし…。観測者は常に一人だけですから……。僕だって喜んで受け入れてるわけじゃ無い……この世界を維持する為には仕方ないんですよ……! 僕が出来る事は彼女に少しでも長く生きて貰う事だけです……!」
二人が話している間、どこか一点を見たままミューは動かなくなった。
一秒毎に、大量の人の情報が流れ込んで来ているせいだろう。
「なにそれ……あの子、傷だらけだけど……。逃げ出せないの?」
「ストレスで、やってしまうみたいですね。こちらも彼女の異変にはすぐに対応するスタッフもいるのですが……。代々観測者は早くに亡くなってしまうそうです。……人の一生で使用する脳の容量を凌駕していますから……。それに睡眠も取らないので……。食事はとりますが、体の修復や疲れは観測者の持つ魔力を使用して補っているようですね……。それに、逃げ出そうという考えは浮かばないようにされているはずです……」
そう話すクロスの顔は険しい。
ミューはこの部屋で、何も知らずに生きていく。
その命が終わるまで、毎日世界中の誰かの生活を、行動を見つめながら。
「……ここに入る事が出来るのは限られた者だけです。僕は、さっきも言った通り優秀なおかげでここへの出入りが許されています。……貴女が何を思っているかは分かりませんが、この世界の隠している事を知りたいのであれば上に行くしかありませんよ」
「……クロスちゃんは、頭良いもんね。本当はこんなゴミシステム、嫌なんでしょ? だからあたしに見せたんだよね?」
否定も肯定も、しない。
「……先輩の頼り方が素直じゃないなあ。…世界を、変えるにはどうしたらいいのかな」
「……頂上まで、登るしか。僕が言えるのはそれだけです。堪えて、耐えて、今抱いているこの想いを消さずに……忘れずに持ち続けていればきっと……」
瞬き一つせず、その場で固まっているミューはまるで人形のようだった。
それは、とても美しく儚げで。
人形にしてはあまりにも痛々しいが、人と呼ぶにも重要な部分が欠落しているようにも見える。
「先輩に、任せときな。クロスちゃんは自分が出来る事をしたらいいよ」
とん、とクロスの薄い胸を押して甲斐が笑う。
心此処に在らずといった様子のミューの目の前で手を素早く振り、変な顔を次々にして反応を楽しんでいるのを見ながら、クロスは不甲斐なさに胸が痛んだ。
きっとそう思う事すらも甲斐は分かっているのだろう。
自分が出来る事、それはなんだろう。
こんなやり方で問題を提起したのは卑怯かもしれない。
だが、彼女なら。
もしかしたらなんとかしてくれると、思ってしまうのだ。




