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第二百九十八話 ビスタニアの危惧・観測機関へ

 休み明けに出社したロジャーはビスタニアを出迎えた。



「おい、大丈夫だったか? お前が出てってから暫く待ってたんだけど全然戻って来ないから帰ったんだけど、見捨てた訳じゃあないぞ!?」



 まるで幽霊でも見るかのような目と共に、体のあちこちを叩くように触られるのはビスタニアにとって朝から不快でしかない。

 変わり者のロジャーに絡まれている新入社員を同情の顔つきで見る同じフロア内の人々は、助けてはくれないのだ。


「ああ、ありがとう。大丈夫だ……だから離れろ……。そして過剰なボディタッチは控えてくれ、頼むから……!」


 不名誉なうわさが立つ前にロジャーを押し戻す。


「なんだよ、心配してんのに……。あれ、お前……そのメガネ……」



 一番最初に目に入るだろうはずの変化にロジャーは気付くのが遅い。

 普段はかけていない眼鏡を着用しているビスタニアは何と答えようか、一瞬迷った。



 ここで上手く誤魔化したところで、今日から度々席を外すことになるのだ。

 サクリダイス直々にフロアリーダーには話を通してあるらしいが、詳しい内容は説明していないだろう。

 これまで順調に一般社員として働いてきたが、それすらもぶち壊されてしまったようで心の中で何度も鎮火していた怒りの炎が新たに火を点けられたような気がした。


「あー……これは、そうだな……。若さを誤魔化す為に必要で……」

「お前、センス無ぇなあ。フォーマルなシーンどころか、そのメガネじゃあ高級感の欠片も無いじゃねえか……」


 ロジャーが口にしたのは眼鏡の批評だった。


「それどころか今日のネイビーのスーツにも合ってない。クソ! 今すぐ買ったメガネ屋を教えてくれ! クレームを入れて仕立て直させてやる……! 若いと思って馬鹿にされたな!?」

「ロジャー……ロジャー! いいんだ……! これは、学生の頃に用意したものだから! そうだよな、お前はセンスにうるさいんだったな!」


 まだ何か言おうとしているロジャーは、誰からも何も聞いていないのだろうか。

 それがビスタニアを安心させ、そして自分の口でロジャーに伝えなければいけないという責任感を芽生えさせた。



 ビスタニアはもう、ここを出なければならない。



 自分だけがこのフロアから出ては戻り、誰とも共有できぬ仕事を行うようになる。

 誰かが手の回っていない仕事をこっそり片付けたり、それに気が付いた相手からコーヒーや甘い物の差し入れがそっとデスクに乗っているようなサプライズとはとても遠くなってしまうのだ。


 必死に築いてきた『普通の社員』の『ビスタニア・ナヴァロ』という人物像は、共に働く人々のおかげで成り立っていたのだと改めて思う。

 まだ一年も働いていない新入社員が、防衛長直々の命により動くなど有り得ない話だろうから。


 フェダインの頃はナヴァロ家の長男だと自ら甲斐に言い、胸を張っていたのに対してこれは大きな変わりようだと思う。



 普通に、平等の評価を得る事の難しさを痛感した。

 名家の生まれだけを誇り、それに見合う成果を上げようとは思うが名前だけで勝ち上がる事は望んでいない。



 『やっぱり特別だ』と思われるのが嫌だ。

 今まで皆にしてきた態度や、仕事へ取り組む姿勢そのものがお愛想だったのだと思われるのが何より怖かった。



「その、ロジャー……。俺は、出なきゃならないんだ……。ただ、戻ったら手伝うからな」

「……はぁ? ああ、出掛けんのか? つーかお前、人の仕事なんて手伝えるか?」


 いつもなら、手伝うなんて言えば喜んでいいヤツだなんだと褒めた癖に。

 何故か突き放されたような気がして、言いよどんでいるとロジャーはニヤリと笑って言った。


「出掛けんのは勝手だけどよ、お前に頼みたい仕事があるのはお父上だけじゃねえんだぜ? 見ろよ、お前のデスクにもう案件積まれてんぞ」



 いつもと変わらず、仕事は山積みのようだ。

 新たな書類を置きに、女子社員がビスタニアの机に向かっていた。



「人の仕事手伝う前に自分の仕事しろっつーの。ほれ、どっか行くんだろ? 早く戻って来いよな」


 置かれた仕事量にも驚いたが、ロジャーはサクリダイスにビスタニアが仕事を任された事を知っていたことの方が驚いた。


「……加減を知らないのか? この部署…。あの量、いつもより多いんじゃないのか……?」


 思わず口を突いて出た愚痴はビスタニアの机に紙の山を作り上げた女子社員を振り返らせてしまった。


「あ! 坊ちゃん、出るんだっけ!? ついでにこれも、出してきて! いっちばん安い配達でいいから! あと早く戻ってきなさいよ!? もー、あっちもこっちもそっちもあれこれ忙しいんだから!」


 火を噴きそうな顔色で彼女は返事も待たずに荷物を押し付けてフロアを駆け回っている。 


「……時は待ってくれない、戻らない。分かってるな?」


 眉を上げたロジャーがビスタニアの肩に優しく手を置いた。


「……急ぎで行って来る。それと、いつもの調子で自分の机に書類を置かせないディフェンスを俺の机にもしてくれ」



×  ×  ×  ×  ×



 その少し後、観測機関の守護者達は安定しているミューの様子を見ながら雑談をしていた。


「今日は魔法防衛機関のおぼっちゃんが来るらしいぜ~」


 ベスが欠伸をしながら言うと、アルテミスはあからさまに嫌な顔をした。


「え~? 何しにぃ? お散歩ぉ? どんなぉ子~?」

「さあな? どうせ偉そうなガキンチョだろ」


 勝手な想像でベスが答えるとアルテミスは口元に手を当てて低い声で言った。


「肥溜めに落ちて死んじゃえばいいのに~」

「いいよな~! パパのコネで入れてよ~!」



 それを聞いていたアテネはミューの体調を記録していたペンを取り落としてしまった。



「……会った事無い人をけなすのって、どうでしょうね」


 ペンを拾い上げながら、アテネは聞こえるか聞こえないか際どい声量で反論を切り込む。


「あん? なんだよ、アテネ。どう考えてもそうだろ。つーかコネ入社じゃないならなんだよ。パパがどこで働いてんのか知らずに入社したって? そりゃいい! 運命の赤い糸ってヤツだな!」

「努力の結果、じゃないですか? 本当に無能なら世界的機関になんて入れないでしょう」


 いつもなら早々に会話を切り上げるはずのアテネが、今日はまた口を返した。

 それが気にくわなかったのか、元々気の長い方ではないベスは立ち上がる。


「おい……。お前随分と知った口利くじゃねえか。アテネ、ウチら守護者は守護者としての名を貰った瞬間に生まれるんだ。その前の出来事も、何もかも、前の名前と一緒に捨てただろ? まさかとは思うけどよぉ、お前―――」

「僕は、人としての尊厳まで捨てた覚えは無いですが。良識すらも失くしたんだとしたら、観測者に悪影響があるのでは?」


 車椅子をアカーテスに二人の間に入れてもらったアルテミスは両手を振りながら、実に楽しそうな笑顔で止めに入る。


「やーめーよーうーよー! あっ、ほら! 来たみたいだよ!」



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