第二百九十話 初めての長官室
終業時間間際、書類を離れたデスクの先輩へ届けに行ったビスタニアが席に戻るなり、ロジャーは最初は手を振って合図していた。
だが、全くこちらに来るどころか顔すら出さない。
痺れを切らしたロジャーはとうとう書類に占拠されようという机から離れ、椅子のキャスターを転がして隣までやって来た。
「おい、お前だよお前。おい! 視野狭すぎだろ! そんなんじゃ生き残れねえぞ!」
「見えてはいた。腕をもいでくれ、の合図だろ? ……ハサミ位しか無いがまあいいか」
「初耳な上、やり口が雑!」
ロジャーはどうにかビスタニアの手を抑え込んだ。
鋏の代わりにコーヒーの入ったカップを持たせてやると、それでどうにか落ち着いたようだ。
「お前のパパがお呼びだってよ! さっき内線入ってたぞ!」
「…………笑えない冗談は嫌いだ」
「ジョークのセンスは服のセンス同様ピカイチだぜ! ……っておま、お前、コーヒー撒き散らしてるぞ!」
カップを持った手は尋常じゃない程震えていた。
ガタガタと机とカップが触れては離れるので音が鳴り、中身が机の上に飛び散っている。
「あ、ああ……これは、大丈夫だ……。これは、ただ…量を減らそうとな……」
「飲めば良くない!? ま、まああれだ……お前も、大変なんだな……」
そう言ってビスタニアの背中を叩き、席に戻ったロジャーはせめて目で見送ろうとした。
しかしいつまで経ってもビスタニアが立ち上がる気配は無い。
先に勢いよく立ち上がったのはロジャーだった。
「おおおおい! お前! そう! 俺と目が合ってるお前だ! ビスタニア・ナヴァロ! どうした!? そんなに急ぎの仕事があったか!?」
「……あ、ああ……。いや、過労のせいでさっきは幻聴が聞こえたかと思ったんだが……やはり現実だったのか」
冗談ではなく、大真面目にこんな事を言うビスタニアはどう考えても普通ではない。
「ビスタニア……。大丈夫か……? そんなに防衛長怖いのか? 一緒に行ってやろうか?」
「いや、いい……。そうだな、早く行かないとお前にも迷惑が掛かるな……。よし」
そう言ってから呼吸を整え、ようやく立ち上がり、そこからまた深呼吸をしている。
一気に顔は生気を失い、目の下にはクマまで出来ている。
ここまで一瞬で気丈な彼を弱らせる効力のある父。
ロジャーは同情しつつも、綺麗に片付けられているビスタニアの机に自分の机に倒れ込もうとしている一塊の書類を移動させた。
甲斐を実家に招いた日に鉢合わせて以来、サクリダイスと顔を合わせる事なく過ごしていた。
父が頭の機関といえど、普段の業務ではそんな自覚も無いまま過ごしてこれたのは共に働く皆のおかげである。
おかしな気を使う事無く、一新入社員として迎え入れてくれ、時に厳しく、時には優しく仕事に従事させてくれた。
サクリダイスは今更なんだと言うのだろう。
機関に入ってから半年、初めて早退したいと思った。
長官室に来るのは初めてだった。
ドアの前に立つとホログラムの画面が幾つも目の前に出現し、偉そうに『解析中』と表示して訳の分からない言語を凄まじい勢いで流している。
音声ガイドの声も無く、鍵の開く音がした。
不愛想なのは父だけではないようだ。
「失礼します……」
呼びつけておいてあからさまに機嫌の悪そうな顔を向けてくる父はどうやら通常運転のようだ。
ドアの先は応接間だった。
映像を投影しているのか、窓の外は太陽が空を焼いている。
以前、父と映像通信をした時に見た部屋とは違うようだ。
「お呼びでしたか?」
豪華なシャンデリアから下がる尖ったクリスタルすらも、ビスタニアを攻撃するタイミングをうかがっているように見えてしまう。
植物一つ無いこの空間で、息をしているのは自分と父のみだ。
酸素が薄いように感じる程、息苦しい。
「座れ」
これが父だ。
サクリダイス・ナヴァロという人間なのだ。
それなのに、無性に腹が立つのは何故だろうか。
「もう半年経ったな。どうだ?」
「どうだ……といいますと?」
「仕事に決まってる。疲れさせるな」
分かっていて聞き返してみたのだが、サクリダイスは苛々とした調子に変わった。
少しだけビスタニアは気持ちが落ち着くのを感じた。
「順調、なつもりです……。勿論至らない所は多々あると思いますが……」
「ほう? まさかお前はフロアにいる他の人間と同じレベルで満足しているのか?」
「……と、いいますと……?」
「報告も勿論上がっている。普通に仕事をこなし、普通に定時で帰っている日もあるな。お前は何か勘違いしているんじゃないか?」
「……仰っている意味が、よく……」
「私がこの部屋の主になる為に、どれだけ仕事を軸にしてきたか分かるか?」
異例の速度で出世し、先代の引退時には実質的にこの機関の指揮を執っていたという。
優秀であり、そして誰よりも努力をしたのだろう。
それは理解できたし、どこまでも凄い人だと思う。
だが、その犠牲になったのは紛れもなく家族だった。
家に帰る日は圧倒的に少なく、帰って来ても一般的な家族像とはかけ離れていた。
怒鳴り声と嘲笑、何かが壊れる音、荒く閉まるドア。
確かに激務の中、一人戦って来たのかもしれない。
だがその体を陰で支えて来たのはいつだって家族だったはずだ。
サクリダイスの後ろで悠々と隠れていたわけじゃない。
母はいつでも父の為に生きていたし、『防衛長の息子』として恥じぬ人間になろうと凡人ながら努力してきた。
「分かっています……それはもう、痛い程」
「結構。では問おう。何故努力しない? 家に帰って何をしてる? 寝る時間が惜しいのか?」
「……努力、ですか。家に帰らず、できる限りの時間を仕事に打ち込むのが……正解なのですか?」
「お前は『普通』とは違う。他の者と同じ立場で語るな。のんびりと過ごしたいならば何故この機関に入った? ゆくゆくはこの部屋の主となり、招く側として誰かを迎える為だろう?」
やっと、ビスタニアは目が覚めた気がした。
そして口角を上げて、はっきりと答える。
「いいえ、違います。ただ、安定を望んだだけです」
最も父が嫌うだろう、目標を告げた。
彼の中では土台でしかない万人と同じように。




