第二百七十八話 ヴァルゲインターの過去④
ぶちまけられた中身を見てもシャイニールはまだ笑っていた。
「やだあ、届けてくれたの? それでそのバッグなのね?」
「もう、逃げ場は無い。一緒に、死のうシャイニール。……酒の貯蔵庫を燃やしてきた」
「そ。それで……これのオリジナルはどこ?」
焦りは見えないが、何かを確かめようとする声色でシャイニールが問う。
「ここに来る前に民間警察にオリジナルを送ったよ」
「……裏切ったの? たった一人の妹を?」
このクラブが燃え始めているというのに、シャイニールが驚いたのはそこだった。
彼女は決して姉は裏切らないと信じ切っていたのだろうか。
残酷なことを平気な顔でする彼女は、だから傲慢なのだ。
「……助けてあげたかった……。でも、私にはこれ以上どうしたらいいか分からない。ゲームオーバーだ」
「おい! さっきから何の話をしてる!? 酒の貯蔵庫を燃やしたあ!? 嘘つくなよ! コイツイカレてんじゃねえか!? つまみ出してやる!」
男はソファの横にある呼び出しボタンを押したが、誰も応答しない。
それどころか返事の代わりに悲鳴や怒号が聞こえてきた。
「ふざけんじゃねえ……! どけ! 死ぬならテメエらで勝手に死にやがれ!」
「私の医者の夢に投資してくれてたけど、ここまでねぇ……。はぁ、新しい人探さないと」
立ち上がった男に何が起きたのか、分からなかった。
気付いた時には喉から血を噴き出してテーブルに突っ込むように倒れていた。
シャイニールが舐めた指先が鋭い刃に変化していた。
「煙たくなってきたわぁ。私、お姉さまには何もしてないのに。ショックだわ。こんな仕打ちって……あんまり」
頬に手をあて、困ったように眉を下げるシャイニールの上辺には騙されるものか。
彼女は頭の中でこの状況を切り抜けようと絵を描いているのだろうから。
「気付いたの、アンタは自分の事しか考えてないんだって。家の手伝いをしていたのも、自分の為でしょ? 汚い家に住むのが嫌だっただけ。……私に電気を消して寝て欲しかったのも万が一私が物音で起きたとしても戦利品に気が付かないようにでしょ。家計とか、電気代の為じゃない」
「それもあるけど、もう一つ理由があるのよお姉さま」
否定することもなく、すんなりと認めた事に私の方が傷ついた。
「……私が一番気を使っていたのはだーれだ? ……貴女よ。イイ子にしてなきゃ、部屋を覗くでしょ? 健気にしてなきゃ夜遊びも許してくれないでしょ? やだ、これは否定しないでよ。だって現にコレじゃない。は~あ、参ったなあ。お姉さまを殺したくなかったのに」
全て、最初から計算だった?
あの刺繍も、すっかり鳴りを潜めていた異常性も、何もかも見ていたのはフェイクだった?
部屋の中にまで白煙が侵入してきている。
もう、残された時間は無い。
ああ、せめて安らかに眠りたい。
「ああ、こんな事していられないわね! それじゃあ、姉さまさようなら」
「行かせな……い……!?」
腕を伸ばしたがシャイニールとの距離間が測れない。
やられた、と思った。
この白煙は火事の煙などではない。
悪魔のような女が起こした攻撃魔法だ。
体の力が抜け、酷い眠気に襲われる。
先日の雪の日、急に意識がとんだのはそういう事だったのか。
「何者にもなれないまま、終わるのね。でも私、お姉さまのコトは忘れないわ。……メガネ、無い方が可愛かったコトもね! ……不幸な火災で亡くなったなら、私が疑われる事も無いもの! うふふふふふふ!」
後頭部にキスを落とし、シャイニールは颯爽と部屋を出て行った。
このままで終われない。
全てを壊し、人から奪う事で己を満たそうとするシャイニールを許せなかった。
指を医療器具に変えていたシャイニールを思い出し、薄れゆく意識の中で人差し指に集中する。
注射針へと変えられたのを確認する。
精神刺激薬の分量も、必要な成分も分かっている。
今だけ、この一回きりでもいいからどうか私にも力を貸して欲しい。
具現化に成功し、注射針を腕に差し込み、注入する。
落ち着いて深く呼吸をしているとやがて立ち上がれるようになった。
チェイサーとして会った水をトートバッグに結んであったシャイニールの刺繍が施された布を外して含ませ、口元を覆うようにして首の後ろで結び、ドアを開いた。
火の手に捕まらないよう、姿勢を低くして素早く逃げ出す中で大勢の客が倒れ、意識を失っていた。
またこうして誰かを見殺しにするのか。
異常だと分かっていたはずのシャイニールを野放しにして、犠牲者を出したのも自分の責任だ。
誰一人救えなかった私に医者を目指す資格は自分にはあるのだろうか。
地獄を見た者は、強いだろうか。
それとも、天国にいる者には決して敵わないだろうか。
× × × × ×
私はあれから食事も寝る時間も惜しみ、あの火災の半年後に行われる医師の資格試験に臨んだ結果は一発合格だった。
しかし町医者も大病院も、資格だけでは医者としては雇われなかった。
エリートと呼ばれる医学部卒や、コネクションの無い私は医師免許さえあれば応募可能な戦場に同行する軍医と呼ぶにはおこがましい使い捨ての派遣医師として生計を立てていた。
「よろしいかな?」
「よろしくない! 忙しいんだから入んな!」
カルテの整理や名前と顔が誰一人一致しないほどの人数への投薬リストを作っている最中だった。
「……君の噂が耳に入って来た。私は特殊部隊の少尉だ」
何もかも、終わったと思った。
振り返るのも馬鹿らしくこのまま背を向け、無礼に対する代償としてここを去る宣告を聞こうと思った。
「我が部隊の専属医師として働いてはくれないか」
「あー……悪いんだけど、入る時からやり直してくれません? ……今度は上品にお答えしますので」
治しても、治しても、また戦場へと戻ってしまう兵士達を見送る毎日に嫌気が差していたのもある。
医者の仕事が無くなる日が来れば、それはどんなに幸せな事か。
まあ、金は無くなるだろうが。
内科と外科の隔てなく、全般の治療を求められるおかげでその辺の医者には負けない力も付いた。
静かな環境で手術や治療をするのが望ましいが、戦場ではそうもいかない。
一度に運び込まれて来る患者の数は桁違いだったし、処置の速度も求められるのだから当然かもしれない。
評判が良い、というのは本当だろう。
軍からの専属依頼が来たのも先月だった。
しかし、断ってしまった。
きっといつまでもこうして死ぬまで戦い続ける彼らを何度も何度も治して、戦場へと背中を押し続ける死神の役割は出来ないと思った。
死神であればまだきっとタチがいいだろう。
特殊部隊といえど、本当は行く気も無かったのだが当時のダイナは意外にも物腰柔らかで更に言えば私が女だと知らなかったのか照れ臭そうに何度も咳ばらいをしながら説明するのを聞いていると面白そうだと思えたのだ。
決定打、として思いつくのはダイナの腕に巻かれた包帯が明らかに素人の巻き方で、しかも組織液が滲んでいたからかもしれない。
私は、この人の役に立ちたいと思った。




