第二百五十五話 女医の連行
女医は手をひらひらと振った。
「ここには煩わしい契約書なんてものは無い。同意書もね。アンタの一言で決まるんだ。内容としては至ってシンプル」
相変わらず兄は笑顔のままだ。
妹を助けたい一心でここを探し当てたのは凄いと思うが、ここまで冷静だと何か狙いがあるのではないかと不信感をまだ全て拭い切れずにいた。
「この子の記憶を魔力で消すのさ。そうすりゃあ声だって出るだろ」
兄の方が腰を前に出し、口を開いたのを見逃さなかった。
「ああ、ああ、分かるよ。ただ安心しな、記憶を消すったって全部丸ごとってえ訳じゃない。トラウマになってるトコを引き出してそれを消してやるのさ」
「どうやって、引き出すんですか? 妹の負担は……?」
常に妹のリスクを考える点は上出来だ。
やはりただの金持ちの兄妹なのだろうか。
「この子が適合者っていうし楽だ、魔力に耐性もある。ちょいと強めに催眠をかけなきゃならんけど、拒絶反応も起きないだろ。どうだい、簡単だろ?」
―――医者だと胸を張って名乗れる奴らはこぞって人権が、とか思い出が、とか口にする。
―――それってそんなに重要か、なんて誰も言いやしない。
嫌な事は忘れりゃいい。
女医は持論を心で自分自身を納得させるように説く。
「(それが出来るのにどいつもこいつも、まどろっこしいやり方で回復した稀な例を挙げてはそれを根拠に何年も微かな希望に向かってケツを叩く)」
優秀だからと言って世界に認められるわけではない。
批判や人間性まで否定してきた学者達の顔を思い出すと未だに吐き気がした。
「(……確かにアタシのやり方に多少のリスクはあるさ。でもなんだってそうだ。試験をすれば上位に上がるかもしれないが下位にいるかもしれない。リスクなしで蜜だけ吸うってのは無理な話だよ)」
否定的だった奴らの何十倍も稼ぎ、人を助けている。
『医者』として感謝されているのだから、格上なのは自分だ。
「(まあ、お堅い医療機関があるおかげでアタシの懐も潤うんだ。感謝しなきゃいけないね)」
「そうですね……では、費用についてお伺いしても?」
「そうだねえ……他所じゃ出来ない事をするんだ。こっちの人生も懸かってる。ざっと一千万ってとこかい。ああ、勿論保険なんざ利かないよ」
金額を聞いても眉一つ動かないこの兄は肝が据わっているのか、それとも親のすねかじりなのか。
「(到底無理な金額から始めるのもアタシのやり方さ。顔を曇らせりゃあ値下げしたフリして本当に欲しい額を提示すりゃあいい。一発でOK出してくれりゃ両客だね……さあ、アンタはどっち?)」
「分かりました、お出しします」
久しぶりの提示金額の一発承諾に興奮と同時にやはり不信感が増えた。
「……おや、意外だね。パッと見だけど確かに金はありそうだ。でもアンタの歳でこんな額をポンと出すなんてね。……どこかの坊ちゃんなのかい?」
「いえいえ。……妹が治るのなら、安いものです。ただ……」
目を細めていた兄がじっとドクターを見つめる。
その瞳にはこれまでと違い、笑みなど欠片も無かった。
「妹のリスクはどの位のものでしょう? もしもリスクが何一つないのだとしたら、何故他の医療機関では行っていないのでしょうか」
「……それはこれから説明しようとしていたんだ」
ただのにこにことした腑抜けではないようだ。
「一度で上手くいかなきゃ何度も通って貰う事になる。ただそれはアタシとしても避けたくてね。分かるだろ? 足がついちゃあ困るんだよ。だからなるべく一度で済ませてる。普通よりもキツイやり方でね」
使用する魔力は通常の三倍、それに耐えうる体と器があるかは分からない。
もしも耐え切れなかったら、今の人格を作り上げた全てを失うだろう。
だが確実に一度で嫌な記憶を消去出来るというメリットも伝えた。
その説明で納得したようだ。
思わず零れそうになる笑みを隠すのに苦労する。
所詮は素人、『拒絶反応が起きた時にどうなるか』など論文を探した所でそれは推測でしかない。
対魔力人体実験のレポートなど一般人が読める場所になど置いてある筈がないのだから。
だが『ドクター』は『素人』とは違う。
ここを拠点にしているのも最近だ。
住む場所も、国も移り変わり、その度様々な経験をしてきた。
使用した魔力の量に耐え切れず、体ごと溶けてしまった者。
体は保ったが、心が壊れてしまった者。
失敗すれば報酬はチャラだがその分、成功する為の調整が出来るようになった。
今回も失語症という患者だが何をどの程度の強さで与えるかはこちらのさじ加減だ。
後は兄の頷き一つで話が進む。
もし失敗しても、この兄を殺してここを移ればいい。
また貴重なデータが取れるだけだ。
成功しても失敗してもおいしい、これだからやめられない。
「分かりました。これで『話は終わり』ですね」
「っはあ~つっかれた。黙ってんのもしんどいね。人の事さんっざんバカにしてくれちゃってさあ……血圧上がりまくって死んだらどうすんの!」
ネオの言った『話は終わり』という単語が合言葉になっていた。
失語症の妹役を見事に演じきった甲斐は肩を回し、女医を睨みながらぺらぺらと話し出した。
これに驚いた、というよりもすぐに取引へ入ろうとした女医は流石である。
「……何が目的だ?」
「手荒な真似は控えたいんですが、どうでしょう。お話を聞かせて頂けますか?」
「……サツかい? まさか手ぶらで来たのかい!? 一体なんの容疑でここに来たのかさっぱりだ!」
力で話し合うのなら負ける気は無い。
相手はただの若者二人である。
小柄な甲斐を狙って襲い掛かろうとした女医は、ネオにあっという間に組み伏せられた。
何故か、女医の魔法が発動しなかったのだ。
「分かりませんでした? 嬉しいなあ。もうとっくに拘束しています。僕が抑え込める程度のようなので力は相殺しています。ここで舌を噛み切ろうとするなら全ての歯を今すぐ抜きますね」
「原始的な歯医者さんって怖いわあ」
甲斐のふざけた返事など、女医には聞こえていない。
見下ろしているネオの瞳はぞっとする冷たさを宿していた。
女医が諦めたように頷くとようやく要求を聞く事が出来た。
「僕達と一緒に来て下さい」
ここでNOなど、言えるはずもない。
甲斐が女医の承諾を確認するとすぐに両腕を掴んで引き起こした。
「ほらほら立って。レッツゴー。……この頭どうやってんの? 毎朝巻くの? 女子力ってどこで得るの?」
一つ確かな事は、彼らは民間警察ではないということ。
こんな手荒な真似をするとは思えないし、いくら魔法警官だとしてもたった二人、しかも丸腰で乗り込む事も出来ないだろうと女医は思った。
「吐く、吐かないは勿論自由だけどもう結果は決まってるからね」
女医の耳元で低く、甘い囁きが響いた。
「この世にある苦痛の最上級に耐えられるかな? 吐かないなら待つのは生き地獄。吐くならその先は安らかな死だ」
選択肢はあるようでない。
この世界に生まれた瞬間から死ぬために生きるのだ。
「(今宵は満月、この下で狩人に捕まったアタシを笑うのは誰だ)」




