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第二百五十四話 闇医者の元へ

 誰もが寝静まる深夜、この町では一人の医者が目を覚ます。

 モーニングコーヒーと呼べるかは定かでないが、マグを片手に照明を点けるとマンションの一室であるこの部屋の異質さが浮き彫りになった。



 一人暮らしにしては広い室内に、家具らしいものは数えるほどしかない。

 二人掛けのソファは白い貝がらが開いた姿をしている。

 その向かいには一脚パイプ椅子が置かれており、そこにこの部屋の主が腰を下ろした。


 サイドテーブルに置かれていたリストと古めかしい置時計を交互に睨みながら最初の一口をようやく口にする。



 白衣の中には防弾チョッキと耐切創の黒いパンツ。

 浅黒い肌に良く映える大きなオレンジの瞳、スパイラルパーマをあてたこげ茶の髪は顎のラインに沿った長さ。

 男性にも負けず劣らずの体格を有していた。

 彼女は足が長く、出る所が出て引っ込むべき所は引っ込んでいるメリハリのある体型である。



 彼女がこの深夜に待っているのは数か月前から予約していた患者だった。

 ただその患者には付き添いがいるらしく、アポイントを取ったのもその付き添い人だった。

 本来、一人での来院以外認めていないが内容を聞いている内に事情が飲み込めた。



 患者である人物は声が出せないという。



 兄妹での来院という事で不信感を抱かなかった訳では無いが、この部屋の中で暴漢が暴れたとしても何も恐れる事はない。


 確固たる自信があった。


 彼女は若い年齢から闇医者と呼ばれる職業に就き、開業を自らの意思で決めた。

 その時から襲われる想定はしてきたし、悲しい事にそれは何度も実現している。

 重要なのは襲われる理由や相手の事情ではない。



 生き残り、熱いコーヒーを飲んでいるのはどちらか、という結果だけだ。

 現に彼女は今もこうして影を伸ばし、悠々とコーヒーを飲んでいる。



 もう少しでマグの中身が無くなるといった時に、ブザーが三回鳴った。

 彼女の目の前に現れた電子モニターにはドアの前の映像が映し出される。

 確かに若い男女が二人。


 兄の方は背が高く、青い髪。


 こんな所に妹の治療を依頼しに来ただけあって、何故か笑顔で映り込んでいる。

 イカレた様子だと彼女は顎を上げた。


 兄だという男性の髪色よりも暗いネイビーのトレンチコートを腕に掛け、ストライプのシャツに白いニットベスト、オフホワイトのパンツにダークブラウンの革靴を履いている。

 どれも高そうな物ばかりで金には困って無さそうだ。

 支払いで揉める心配が無い事は大きい。


 一方、患者である妹は黒い髪をセンターで分け、高い位置で髪を二つに結んでいる小さな女性だった。


 どう見ても兄妹には見えない。

 そもそもこの女性はアジア系だ。


 黒革のライダースの前を留めて、真っ赤な赤のチュールスカートを合わせている。

 短めの丈だが、膝上まで長さがあるブーツを履いて露出を抑えているようだ。


 だがこの部屋に来る途中に仕掛けている危険物感知にも引っ掛からなかった。

 丸腰という訳だ。

 まだ安心するには早いが、ドアの前まで足を踏み鳴らして行き、恒例の質問をする。



「何時だと思ってんだ?」

「ええと……『二時十六分』ですね」

  


 合言葉代わりに彼らの予定の時刻を正確に答えた二人を中へ招き入れる。


 貝がらのソファへ座るように告げた。

 二人の様子を見ていると兄は妹を大切にしているのが分かる。

 妹を優先して座らせるその瞳には優しさだけが宿っていたし、彼女に話しかける口調も予約の通信をしてきた時よりも優しかった。

 一方で妹は真っ赤に塗った口紅が似合っていないから不機嫌なのか、明らかにイライラとした様子でガムを膨らませていた。





 ネオが甲斐にこの部屋に入る前に通信で約束するように言った事はたったの二つ。





 名前は絶対に呼び合わない、医師に教えない事。

 ここに来た事を絶対に知られない事。



 闇の中で生きる者に関わる際の最低限のマナーだった。



「引き受けて下さって感謝しています、ドクター」


 ネオから切り出した会話に女医も大雑把に答える。


「ああ、ああ、いんだよ。……そんで、妹さん?」

「ええ、見えませんか?」

「……アンタと頭の出来から人種まで違うと流石にね。腹違いか?」



 ちょうどその時、大きく膨らませ過ぎたガムは破裂して妹らしき人物の顔を覆った。

 息が出来ないのかもがきながらも手が汚れるのが嫌なのか足をばたばたとさせている。

 慣れた様子で兄はガムを凍らせてマスクのようになったガムを剥がした。



「その通りです……ただ、僕は妹を本当に大切に思っています。血の繋がりがそんなに大切だと思いますか?」

「いや……。アンタはこの子に必要だ。そうだろ?」


 その言葉に意味ありげに頷いた兄から視線を外さぬまま言葉を繋ぐ。


「それでいいんじゃない? アンタがいないとこの子はガムで窒息死だろ。ガム剥がしマシーンが発明されたらアンタはお役御免だけどね」


 妹の顔から剥がしたガムマスクを両手で持っている兄から受け取り、サイドテーブルに置いた。

 ガムの内側にはつけまつげやら濃すぎたチークやらが貼り付いていて気色が悪い。



「さ、本題に入ろうか。妹の声を出せるようにしたいんだって?」

「ええ……そうなんです。難しいでしょうか?幼いころにショックな事があってから、声を失ってしまって」

「知能を上げてくれって頼まれたら絶望モンだったけど、声なら簡単だね。で、妹は適合者かい?」

「そうです、ただ力の使い方を習ってないんですが……」


 わざとらしく息を吐き出してから、兄へ真剣な顔を見せる。


「アタシのやり方は少々手荒だよ、ただ確実さ。今の医療に絶望したからアタシのトコに来たんだろ?あれもダメ、これもダメって制限されてちゃなんにも出来やしない。治るモンも治らない。そうだろ?」

「ええ、ええ。その通りです。カウンセリングも何もかも、意味が無かった。このまま死ぬまで妹の声を聞けないだなんて耐えられません」



 どいつもこいつも、口を揃えて馬鹿な事を言うもんだ。

 その『絶望』に守られている自覚が無い。

 女医はカモを前に口の端が上がりそうになるのを堪えるのが大変だった。



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