第二百三十九話 マップの仕掛け
全く普段と同じ時刻にリチャードは代表室のドアを叩く。
返事は無いがノブを回し、背筋を伸ばしてエルガを見つめる。
「おはようございます、今朝はお渡しする郵送物はございません。本日の予定としては雑誌の表紙撮影が三件入っております。一番早い撮影が一時間後の『世界の有識者達』です。出版社は……」
すらすらと予定を暗唱するリチャードに、今まで朝のメールチェックをしていたエルガが眉をひそめた。
代表の僅かな表情の変化も見逃さぬこの側近は同時に口をつぐむ。
「……随分と張り切っているな。暗記もいいが、使える物は使った方が良い。例えばスケジュール帳だ。たった一言の言い違いから取り返しのつかない事態に陥る事もある。それに日々変わる予定を暗記する時間があれば別の事に時間を充てたらどうだ?」
「申し訳ありません……! ここから出たら、真っ先に手帳を取りに部屋へ戻ります」
「それはいい。ただその報告は不要だ」
エルガの手厳しい挨拶にもリチャードはもう臆しない。
それはこれまでに様々な経験を積んだおかげだろう。
「……Zの開発は進んでいるか?」
「はい、順調です。大きな問題も無いようですし、引き抜いたあの二名も上手くSOODMからの研究員達とやっているようですね」
「……順調に見えるときこそ、足元に迫る亀裂に気が付きにくいものだ」
やはりまだエルガはあの二人を信用していないようだ。
リチャードはあの二人、と称されたヴィヴィとカリアになんら不信感も抱いてはいなかったが、ここは自分の気持ちよりもこの企業の筆頭であるエルガの判断を尊重しなければならない。
「では、Zの内部の様子も面談を行って把握できるようにします。確かに問題があれば報告するようにと言いましたが、何一つこちらへ報告が上がらないのも不自然ですね」
「アッパー、ちなみに君の予定を教えてくれないか。時折、連絡が繋がらない事があるんだが」
下手に隠そうとするよりは話してしまった方がいいだろう。
あの机の下から飛び出した時に比べたらなんてことない勇気の分量だ。
「……申し訳ありません! 頂いた権限により、書庫に入っておりました。今までSOODMの行った研究開発で、参考になる資料や前任のボーン氏の残した物があればと思い……」
「それは結構。成果を上げた人間の次の行動としては上出来だな。与えた力が無駄にならずに良かった」
「本日も空いた時間を見て書庫へ行こうかと思っておりましたが、暫く控えます」
日常の業務で最優先すべきエルガからクレームが入ったのだ。
自重すべき時である。
「いや、その必要は無い。私にも君と同じように足が二本備わっている。用がある時はこちらから出向こう」
「そんな……! 恐れ入ります……!」
「いつもここで置き物の様に座っているだけでは体を壊しそうだ。……撮影の指定がスーツだったな、着替えて来る」
リチャードは慌ててジャケットのポケットを探り、SODOMのマップを取り出した。
「撮影場所ですが、このフロアの会議室にセッティングしました。椅子とテーブルを最低限に減らしてあります。如何でしょう!」
「任せる。撮影には君も同席してくれ」
もう背を向けているエルガの後方で、リチャードはマップを広げたまま目を落としていた。
遠ざかる足音が聞こえない事を不審に感じたのかエルガは少しだけ顔を向ける。
「何もここで待ち構えていなくとも、逃げ出しはしないさ」
「し、失礼しました! では、後程……お待ちしております」
マップを畳む事もせずに部屋を出ると、ドアの前で再びマップを広げた。
これは新入社員に最初に配られる資料だ、確かに見た覚えがある。
無論SODOM内部が分かってしまうこのマップの持ち出しは不可能で、一歩でも外へ出れば白紙と変わってしまう。
これを手にした時から事務に終われる日々だったリチャードは未だに立ち入った事の無い部屋ばかりで、部屋の名称を目次で見てもどこにあるのか見当もつかなかった。
目次に並ぶ名称に触れると、各フロアの図の中で文字色が赤くなり、その空間が明るく光る仕掛けは分かりやすい。
しかし、入るには権限や鍵が必要な場所は黒く塗り潰されており、目次にも表示されない。
だが今はどうだ。
先程、確認の為に広げたこのマップには一つも黒塗りの部屋は無い。
「知らなかったな……地下にこんなに研究施設が入っていたなんて……。……そうか……!」
空白の数か月、甲斐がどこにいたのか分かった気がした。
全てはここにあったのだ。
「まだいたのか。ドアの前で着替えを待たれるとは……なんとも言えない気分だ」
「……とても、良くお似合いです」
ワニ革の真紅のジャケットは光をよく跳ね返していた。
黒のパンツと同色のベストは一目で質の良い物だと分かる。
真っ白なシャツに付いているネクタイは銀色で、ベストのボタンと同じように輝いていた。
髪を家紋の入った銀の髪留めにより、後ろで束ねたエルガはサイドの髪を少し残しており、顔が揺れる度に合わせて動いた。
「……今度はマップを暗記する気か?」
「いえ……ただ、事務の時では見えなかった部屋が見えるようになった事に気が付いて驚いてしまって……」
「今や君に入れぬ部屋はない。興味があるなら探検にでも出たらいい」
会議室までの道をエルガの少し後ろを歩きながら付いて行く。
「……そんな。私などが突然研究室や他の役職者の部屋へ現れたらつまみ出されてしまいます」
「何故だ? 私をつまみ出すような社員がここにいると?」
足を止めたまま、こちらを見ずに話すエルガにリチャードは息が止まりそうだった。
「君はいわば私の目であり、耳だ。このSODOMとZを自分の一部だと思え。その意識を持って堂々たる姿で現れたならつまみ出されるようなことはあるまい」
「……は、はい」
「……まあ、机の下に潜んでいたなら手荒い歓迎を受けるかもしれないが」
エルガが冗談を言ったことに気が付いたのは、撮影をぼんやりと見守っている時だった。




