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第二百三十話 シェアトへ報告



 ビスタニアの言葉に甲斐は言葉を失ってしまった。



「お別れって……」



 —————たった一言、あれだけで?

 —————なんの言い訳も無いまま、クロスの言葉で何も語られぬまま?



「確かにクロスちゃんはミューちゃん……観測者の子ミューちゃんっていうんだけど、その子を助けたいとか言ってたけどこれじゃあ助けた事にもなんないじゃん!」


 ビスタニアは甲斐が怒るだろうということも予測済みだ。

 こうして語気を荒げ、顔を赤くしている甲斐は素直だと思う。


『クロスが観測者に入れ込んでいたなら、寿命が来るまで傍にいる事を選んだんだろう。助け出してやりたいのは山々だが……これ以上、どうする事も出来んな……』


 首を振るビスタニアの言葉は甲斐には聞こえないようだ。


「観測機関の、ボスみたいなハゲに直接掛け合って来る。クロスちゃんを返してもらわないと」

『……掛け合ったところで、クロス自身が望んだ事ならばどうしようもない。だからこそ、お前の前に現れて自分の新たな名前と職を告げたんだろう』


 説明しても無駄だと分かってはいるが、このままでは甲斐のことだ、今すぐにでも観測機関へと乗り込みかねない。


「じゃあ、あたしが単体で乗り込んでクロスちゃんとミューちゃんをぶん取って————」

『絶対に駄目だ!』


 とうとう甲斐よりも先に立ち上がったビスタニアの剣幕に甲斐は口を開けたまま、ぽかんと見上げた。

 冷静さを失ったが、ビスタニアの回復は早い。

 眉間に拳をあて、ビスタニアは黙り込んでしまった。

 やがて整理が終わったのか、再びベッドに腰掛けて足を組んだ。


『怒鳴ったりして……本当に悪かった』



 まず先に謝罪を述べ、甲斐がそれに対して頷くのを見てからビスタニアは安心したようにぎこちなく笑って、話し出す。



『俺もクロスが大切だし、心配だ。お前の気持ちも分かるし、なんとかしてやりたいとも思う。だが、お前が危険な目に遭う方が俺は嫌なんだ』



 甲斐が口を開いたが、ビスタニアに少し待つように手で合図をされ、再び口を真一文字に結ぶ。



『普段だって危険な仕事をしているのを両手を叩いて応援している訳じゃない。……器の小さい男だと思うかもしれんが、心配なんだ』

「ごめん……。軽率だったね。ん?軽薄?薄情?なんかそんな感じ。……でも……じゃあ、どうしたら、いいかなあ……」


 甲斐は頭を下げ、うなだれてしまった。

 何か今できる事を、ビスタニアは模索する。



 そして、一つだけ甲斐にしかできない事を思いついた。



『……さっきはあの犬に口止めをしたが、こうなってしまっては言ってやった方がいいかもしれんな』



 それは非常に不本意だと言いたそうな口調で、クロスが消えたことを聞いた時よりも顔は険しかった。



『お前も嘘がつけないだろうし、隠し事に向いているとは思えん。もし口にするなら、あいつが絶対に事を荒立てないように目を光らせろ』

「分かっ……たぁ……。うわー、気が重い。気持ちに重力があったとしたら身動き一つ取れない感じ。朝になる前に暇な今のうちに話してこようかなあ……」


 ぶつぶつと困ったように独り言を呟く甲斐がぱっと顔を上げ、上目遣いでビスタニアを見つめる。


「あ、そうだ行く前に一個聞いてもいーい?」

『なんだ?遠慮するな』



 可愛らしい聞き方にビスタニアの緊張もほぐれる。



「……過失致死ってどうしたら成立するかだけ教えて……」

『一応聞くが、その知識を何故今欲しているんだ……』

「……シェアトが言っても聞かないようなら……最悪、この手でいくしかないかなって……」


 飛び出したとんでもワードに真面目に返答するよりも、ビスタニアは先ほどから気になっていた事を口にする事を選んだ。



『不幸な結末を想像するよりも、お前は忘れない内に下に何かを履いてくれ』



×  ×  ×  ×  ×



「シェアト―。シェアトー? シェアトー!」

「……なんだよ……? 火事と緊急招集以外なら許さねえぞ……」


 電気も点けず、手探りで部屋のドアの前まで来たシェアトは少しだけドアを開けてくれた。

 寝ていたようで、通路の照明を忌々しそうに目を細めて見ている。

 グレーのスウェットを履いただけのシェアトの体には幾つかの傷が残っている。


 甲斐はシェアトの体を押して中へ入り、勝手に電気を点けた。

 真夜中という事もあり、暖色系の明かりが部屋に満ちる。

 足元には脱ぎ捨てられた服や、食堂から盗んで来たらしい雑誌が落ちていた。



「……あのなあ……、夜中に男の部屋に入り込むのってなんつーか、よろしくねえと俺は思うぜ」

「うん? なんで? 用があるのに来ちゃダメなの?」



 頭を掻いていたシェアトの手が止まる。

 


「プライバシー的に?だったらごめん、でもそんな怒るなよう……」



 その一言が、シェアトを突き動かした。

 彼女が鈍いのも、そういった目で自分を見ていない事もとっくに分かっていたはずなのに。

 今までに何度も夜に部屋に来ていたし、それを追い出そうともしなかったのに。

 急にこんな事を言い出された方が困惑するのは当然だ。



 それなのに、どうしても許せなかったのは寝起きだからだろうか。



 距離を置こうと努力しているのに、先に態度を変えたのは甲斐の方なのに、いとも簡単にこうして境界線を乗り越えて来る彼女の無邪気さが許せなかった。

 気が付いた時には甲斐の腕を掴み、肩を掴んでのしかかるようにベッドへと押し倒していた。



「……なんでダメかこれでも分からねえか?」



 噛みつくように甲斐の首筋に歯を立てながら、器用に甲斐の両腕を片手で掴み、服の中へと手を伸ばした。

 彼女の手首は驚くほど細く、体は予想よりも薄い。

 女性らしい柔らかみは然程感じられないが、体温は低く、そして非力だと思った。



 しかし、残念ながら甲斐もやられるがままではない。



 ショートパンツから伸びている素足はシェアトの足首によって抵抗できなくされているが、それは一般的な女性であればこのまま変化は無かったはずである。


 シェアトの部屋の中で最も光度が高いのは、何故か甲斐のその両足だった。

 炎がまるで大蛇のように甲斐の足に巻き付いていく。

 

 

 おかしな熱量を感じたシェアトが甲斐の上から飛びのくのに時間は掛からなかった。



「おっまえマジかよ! おい! あっちい!」

「ベッドってよく燃えるんだー。あ、いいの? こっちは消さなくて」


 甲斐が指差したのはマットレスと掛け布団が炎に飲み込まれて行く光景だった。

 寝床の消火に水を魔法で使おうとしたが、これから眠る事を思い出したらしく枕を使って炎を押さえ込んだ。

 必死になっているシェアトをよそに甲斐は噛まれた首を鏡で確認している。



「あーほらあ! 歯型付いてるし! しかも赤くなってるんだけど! 飼い犬に首を噛まれるってこの事だ!」

「うるせえな! 消すの手伝えよ! 何しに来たんだお前は! 寝てるトコ起こしといて、部屋に入り込むわ……俺のベッドに恨みでもあんのか!? 煮ても焼いても食えねえぞ!」


 

 呑気に首筋を見ている甲斐の横でシェアトは必死に火を消している。



「報告しに来たんだよ、シェアトが血迷ったからこうなってんじゃん」

「報告だあ!? 『今から貴方のベッドを燃やします』! ってか!? そらありがてえな!」

「骨すら残らない温度で焼かれなかっただけ良いと思え……!」


 

 こんな状況の中でも甲斐は普段と変わらない。

 シェアトはどうやら数分前の自分はどうかしていたのだと考えていた。



「そうそう、クロスちゃんが見つかったんだよね」



 

 冗談にしては、たちが悪いと思った。


 


「ほら、手、止めないで。煙たい」

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