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第二百十一話 フルラの現在

 フルラはアルビダの研究所に勤める事となってから、フルラは毎朝彼女が起床するよりも早く地下へ続く裏口の鍵を開けて一人、研究に励んでいた。


 それはアルビダに言われたわけではない。

 フルラがそうしたいからしているのだ。


 悪いことだとも思っていなかったし、始業時間なんてしっかり決まっているわけでもないがゆったりとした朝を過ごすことは今のフルラにはとても難しいものとなっていた。



「…おはよう、早いね。私は年寄りだから構わないけれど……貴女は違うわ」



 季節は秋に入り、徐々に下がってきている気温が高齢のアルビダの体に堪えるようで、厚手のパジャマにショールを掛けて体を自分で抱きしめるように温めている。

 声を掛けられ、驚いたフルラはアルビダの話した意味を考え、そしてアルビダと同じデンマーク語で答えた。



「おはようございます、アルビダさん。起こした、私、すみません」



 ぺこぺこと頭を下げる度に、首元で結ばれたおさげの髪が動きに合わせて跳ねる。

 慣れないデンマーク語を話す彼女は時折イントネーションが違ったり、意味不明な事を口走る。

 初日からフルラのこの努力を買ってはいたが、研究をする上では障害になってしまうのではと思い、言語共通魔法を使うように勧めたがフルラは困ったように笑いながら読み込んだ形跡の見える辞書をポシェットから出してきたのだ。



 アルビダは決してフルラに笑顔を見せない代わりに、強く何かを指示したり、否定する事もしなかった。



 フルラは新しい環境に適応しようとしていた。

 有名どころか偉大なる研究者として知られている伝説のアルビダ・マシューから直々に指名を受けたフルラは死んでしまいそうだった。

 その理由は分からなかったし、尋ねてみても『死ぬ前に人助けをしたいと思った』と一貫して突き通されてしまった。


 給料も十分すぎるほどの額を提示され、思わず断りかけてしまったがその分働いてもらうと半ば強引に押し切られ、契約書に震える文字でサインをした。

 それからというもの、始業時間の三時間前にはアルビダの自宅の地下にある研究室に顔を出し、終業時間を回っても居残り続けるせいで地下室にだけ通している電気供給のスイッチを落とされてしまった事もある。



 せめて給料に見合う仕事をしようと思っていた。



 アルビダは正にこれから数十年ぶりに研究を始めるという。

 それは何かと思えば、フルラが必死に掻き集めてきたマラタイト研究所の資料の存在を何故か把握しており、その研究の続きをしようと言い出した。

 研究のデータを簡単に渡す訳にはいかないフルラが葛藤していると、アルビダはようやくここへフルラを誘った理由を明かしたのだ。



 ヴィヴィとカリアから頼まれたのだとようやく白状した。



 彼らはもう釈放されており、とある場所で研究を行っているとも。

 その言葉をフルラがすぐに信じた訳では無いが、アルビダの瞳は真剣だった。


 これまで消息どころか安否すらも不明だった彼女が、今になってこうして姿を現し、自宅の研究所を解放して研究員としては日が浅く、実力すらも分からないフルラを招き入れた。

 体調も良い日と悪い日があるらしく、時折酷い顔色をしながら昼食を作ってくれる時もある。


 

 誠意に応えようと、フルラはデンマーク語の勉強を自然と始めた。

 魔力機器を持たない彼女が何を喜び、何を重んじているのか。

 フルラはそれを察知した。



 ここで、二人はマラタイト研究所で行っていた簡単な研究から始めていた。

 データの管理は全てフルラに任され、鍵を持ち帰る事も勧めてくれたアルビダを信用するのに時間はそうかからなかった。



「体、大丈夫ですか。私、今日、ランチ、持って来ました」

「……ありがとうね。……フルラ、よくお聞き。私に何かあったら、ここの全てを貴女に託すわ」




 ランチバスケットを取り落としかけたフルラは空中で何度もキャッチしては落としかけ、最終的に床に落ちる寸前で捨て身のキャッチを見せた。

 アルビダは上を向いて仕切り直すと、立ち上がったフルラにも座るように促し、アルビダの机から書類を取り出して隣に腰掛けた。



「私を信用しなくてもいい。私がこの世を去るまで、貴女は私に盗まれてもどうだっていいような研究の手伝いだけさせておけばいいの。それで貴女が安心して働けるなら。それを私は悲しまないわ」

「アルビダさん、どうして。何故、そんな事を?」



 言葉が通じないというのは実に不便だ。

 もっと聞かせたい言葉があるはずなのに、どう表せばいいのか分からない。

 いや、こんな場面では言葉が通じたとしてもきっと今とそう変わらない言葉しか出て来なかったかもしれない。



「フルラ、貴女はこの先の人生が長いのよ。もしかしたらこの前の事件以上に悲しい事があるかもしれない。その時に、立ち向かえる強さを持って欲しいの」



 これまで、アルビダはマラタイト研究所の襲撃事件について触れたことが無かった。



「今、貴女がこうしてここに立って働いている。この事実だけでも凄い事よ。だから、こんな所で駄目になって欲しくないわ。私を信じ切れない事で貴女に罪悪感を抱いて欲しくないの」

「……アルビダさん、私、信じています。大丈夫です。ごめんなさい……」


 首を振り、言葉を頭で組み立てながら話すフルラはもどかしそうに拳を握った。


「……信じている、というのはそんな顔をして口にする言葉じゃないわ」




 アルビダは、フルラに柔らかく微笑みかける。




「フルラ、私の仕事は貴女が何の心配も無くここで働けるようにする事。マラタイト研究所で志半ばで倒れた仲間の行っていた研究を引き継いだ勇敢な貴女を手助けしたいの。それなのに、私が邪魔になっていたんじゃ本末転倒だわ」



 襲撃事件の後、クリスがフルラに付き添うように家にいてくれた。

 しかし、その間も何処から嗅ぎつけたのか心配そうな顔をして訪れた様々な研究所の所長達はマラタイト研究所のデータの行方を気にしてばかりいたのだ。

 疑いたくもないのにアルビダがもしかしたらいつか全てを裏切ってしまうかもしれないという不安や、ここもいつか自分がいるせいで襲撃されてしまうかもしれないといったどうしようもない気持ちを見抜かれていたのだろう。


 

 フルラは己を恥じた。

 それを許し、受け入れるというこの女性のように強くなりたいと思った。



「だから、全てあげましょう。貴女はここで立ち止まってちゃいけないの。私はどうせ長くない。可愛い女の子を裏切らなかった老女が二度と起き上がらなくなったなら、手を握ってやって。……でも、もしも……その老女がもしも無垢な少女を裏切る魔女だったなら、その時は……」


 

 眉を上げ、アルビダは自分の年齢の何回りも違うフルラを見た。

 こんなにも幼く、そして若く、希望が彼女を包んでいる。



「私を、私のすべてを許さなくていいわ」

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