第二百九話 星の恋人たちよ
クリスは音声通信の着信音が鳴る前に、通信中のボタンが灯った瞬間通話ボタンを押してしまった。
待ちに待った時だったのだ。
「あっ、は、はい! 久しぶり! ちょうど、ホントにちょうどかけようとしてたの!」
いつか鳴るであろう恋人からの映像通信に合わせて今にも抱きしめたくなるような、ガウンの寝間着も新調した。
彼女の着ている真っ白なガウンは挑発的に胸元がざっくりと開いているし、その質感は最上級の物だった。
細いウェストを強調する美しいシルエットのこのガウンは少々値が張ったが、クリスは惜しまなかった。
「本当?良かった、一緒だね」
「そ、そうね!」
短い髪の毛を撫でつけながら、クリスは不思議そうに切り出す。
「ルーカス、その、間違えてないかしら?」
「……間違える? 僕の知り合いにこんなに可愛い声をしてるのはクリス以外いないよ?」
彼女の問いの意味が分からずにルーカスは笑いを交えて答える。
クリスはバツが悪そうに唸っている。
「あー……最近職場で怒鳴り過ぎてて、自分が普通の会話が出来るか心配だったけど大丈夫そうね。そうじゃなくて……その、これって音声通信よね?」
「そうだけど……都合が悪い? 久しぶりに君が実家に帰るって伝言を聞いたけど、日にちは今日じゃなかった?」
「合ってるわ! その通りよ! 私はもう、実家の慣れ親しんだ自分の部屋よ! 家族との再会も済ませたし、あとはそうね、一人きりの部屋でゆっくりするだけ!」
鼻息荒くクリスが『一人』を強調している。
「そうなんだ、クリスは実家に帰って何をしたの?」
「……そうね、カイやフルラと『映像』通信をしたり……お気に入りのドラマの『映像』を見たり!」
押しては返す波音のように声のボリュームを操りながらクリスはルーカスにアピールを試みる。
「そうだ、フルラはどう? 大丈夫? ……って言っても、もう一か月も前の話になっちゃうのか。何も出来なくてごめん……」
こうまでしても、ルーカスは気が付かない。
それどころか逸らしにくい話題へと突入してしまった。
「はぁ……。いいのよ、フルラも新しい就職先が見つかったみたいで……。確か紹介してもらえたらしいのよ、かなり有名な方の所らしいけど、どこかは聞いていないわ」
会話は沈黙へと変わった。
ルーカスが言葉を選んでいるのを察したクリスが強い声で言った。
「フルラは私達が思っているよりも強い、本当よ」
「そっか、良かった。あの泣き虫さんがどうしているのか気がかりだったんだ。でも、君が傍にいてくれたんだから心配する事無かったね。君と居れば辛い事も乗り切れるのは僕だけじゃないはずだし」
そんな事を言われて嬉しくないはずがない。
クリスは照れているのを悟られないように話題を変えた。
「それで……ルーカス、貴方は今どこにいるの? またすぐに仕事が入りそうなのかしら? それとも、また私の知らない土地で出番を待っているの?」
少しばかり嫌味を込めて、クリスは言った。
会えない日々を乗り越える事がこんなにも辛いなんて知らなかった。
いや、知りたくなかったのに。
「ああ、言ってなかったね。ごめん。でも、ここは僕よりも君の方が詳しそうだ」
「そうなの? どこかしら……ファッションの聖地? それともお洒落なレストランの多い場所?」
「どっちもハズレ。……クリス、どこで通信してるの?」
「どこって……自分の部屋だけど?どうして?」
「窓に寄り掛かってる?」
確かにクリスは窓の縁に座り、片足を立てて座っていた。
期待を込めて戸惑いながらカーテンを開ける。
左側には父が生まれる前からあったという夜光樹はポーター家のシンボルツリーとして、今や二階にあるクリスの部屋を越す高さにまで成長している。
誰よりも先に出迎える光るこの木のおかげで暗い夜道も怖くはない。
右側の窓から辺りを見渡してみたが、通りには誰の影も無かった。
「大ハズレ。ベッドの上よ。ここにいると眠くなってきちゃうの」
勝手に期待をした自分が悪いのだが、悔しくなって小さな嘘を吐いた。
自分の王子様は思い付きのようなサプライズをするようなタイプではない。
会える日を事前に合わせ、その日を最高の物にする為に計画を立ててくれるしっかり者の優等生タイプだ。
不満という訳では無いが、卒業してからデートらしいデートをした記憶は無い。
お互いに非常に忙しくなる事は分かっていたし、それに対する覚悟もしていたつもりだ。
その覚悟も、最近はふとした時に崩れてしまいそうになるのだ。
忙しい日々の中で、互いの伝言サービスに今日一日の事を吹き込み合う瞬間。
日に焼けたと話していた彼を誰よりも一番最初に見る事が出来ないもどかしさ。
仕事をしている上で避けられない動物の命の終わりを見届けた時。
酷く美しい夕焼けを見た時。
のしかかるような眠気に襲われない稀な日には、仮眠室のベッドの上で頭の整理をしている時に浮かぶ恋人が無事かどうか、どこにいるのかも分からぬ言い知れぬ不安。
しかしそれをクリスは爆発させる場所が無い。
辛さも、寂しさもひっくるめて『覚悟する』と誓ったのだから。
ただせめて、顔を見られたら。
もしかしたらゆらゆらと揺れ動き、砂埃を上げる積み重ねた覚悟の塔の動きを止められるかもしれないのに。
「本当に? じゃあ、もう切ろうか?残念だけど」
「まさか! 何言ってるのよ! 冗談よ! 切ったら許さないから! ルーカス!?」
何かが激しく擦れるような音が耳に響く。
電波が悪いのだろうか、だとすればどこかを移動しているルーカスの方だとは分かってはいるが思わず右の窓を押し開けて顔を出し、クリスの付けているカチューシャ型の通信機器が彼の声を拾うのを待った。
窓のサッシに両肘を付き、手に顎を乗せて星を見上げる。
ふと目の端に何かが映りこんだ。
夜光樹のふんわりとした光を遮っているのは、紛れもなくルーカス本人だった。
窓に向かって伸びている枝を辿りながら、クリスへ向かい、歩いて来る。
「クリス、やっぱりそろそろ通信を切ろうか」
「ばか……ほんと……」
手を伸ばしてルーカスの手を握り、窓から部屋の中へと招き入れる。
「それで、君のベッドがここって事で間違いないのかな?」
今はベッドの上だとクリスの小さく、悪意の無い嘘を皮肉ってルーカスが笑う。
「ルーカス、そこは窓の縁よ。ベッドはここ。やっぱり医療団ってまともな寝具じゃ寝れないの?ベッドってこれの事を指すのよ!」
ルーカスの腕を強く引いて、クリスは彼をベッドに押し倒した。




