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第二百二話 誰もいない代表室

 窓一つ無い書庫の中で一日の大半を過ごし続けているリチャードは、一週間ほどで書類の山を半分に減らしていた。

 日々の業務もこなしながら、過去のボーンの仕事ぶりに目を通すには時間が足りなかった。


 そのおかげで二日連続同じスーツを着たまま、エルガへ報告を上げに行くことになる。



 今朝はとうとう、そのつけを払う事となった。



 エルガはいつも通りこちらに目もくれていない。

 そう思っていたが、リチャードが報告を行おうとするとエルガが手を上げてそれを遮った。



「……そのスーツはお気に入りか?」

「……い、いえ……。そういった訳では……」


 安物というわけではないが、有名ブランドのスーツというわけでもない。

 特に気に入る、気に入らないといった感情はスーツに対して持ち合わせていなかった。

 エルガが何を言わんとしているのかが分からず、立ったまま困惑している。



「そうでないとするならば、何着も同じスーツを持っているのか?」



 エルガにここまで言われて、ようやくリチャードは自分の身なりに気が付いた。

 座ったまま眠ってしまい、パンツにも皺が入っているし、いつも爽やかに見えるように気を遣っている頭は手で抑えた跡が残っている。


 目の前にいるのはいつも美しく、よく手入れされた髪の毛には癖の一つも見受けられない代表だ。

 同じ服を着ている姿など見た事が無い。



 現に今も、小首を傾げながら不思議そうにこちらを見ているエルガは真新しい白の男性用のチャイナ服を着ている。

 留め具と縁を彩っているのは黄金で、光の当たる角度によっては花の刺繍が現れては消えた。

 足を組んでいるパンツは黒で、細身の彼に良く似合っている。



「……昨日、その……部屋で気が付いたら眠ってしまっていて……申し訳ありません!」

「……報告は、君が服を替えてから聞くとしよう」



 リチャードは脱兎のごとく駆けだすと大急ぎで自室へ戻り、バスルームに駆け込んだ。

 シャツのボタンを引き千切る勢いでシャワーを浴びている間、手が二本あって良かったと思った。

 右手は頭、左手は体を洗い、シャワーは出したまま流した。


 仕事を遅刻したことも無ければ、早退も欠勤も経験の無いリチャードは青ざめていた。

 よりによって上司どころか企業の代表から着替えて来いと言われるなんて、人生の汚点でしかない。

 クローゼットにはお手伝い天使が皺一つ無い状態にしてくれたシャツとスーツが掛かっている。



「……結婚なんてしなくても平気だな」



 代表室へ息を切らして駆け、ドアの前で髪を整え、息を落ち着かせたがノックに返事は無い。

 そこまで怒らせてしまったのかと不安になり、再度ノックに挑戦したがやはり返事は聞こえなかった。

 周りを見渡し、怒鳴られたとしてもそれを噂するような人影が無い事を確認してからドアノブを握る。


 まだはっきりとした善悪の基準すら分からぬ年の頃、両親の寝室を探検して怒られた事があった。

 今なら分かるが、あの時の母は冷静さを必死にかき集めながら人の部屋に勝手に入るのはいけない事なのだと丁寧に教えてくれた。

 実際その通りだと分かるのは、複雑な気持ちを感じる事が出来た思春期と言われる年齢になってからだった。



「……失礼します」



 鍵は掛かっていなかった。

 リチャードからすると、それはあまり喜ばしいことではなかった。

 中にいるエルガの表情は決して柔らかいものではないだろうから。



 だがこの部屋の主はどこにもいなかった。



 オフィスというには殺風景過ぎるこの部屋は床も壁も天井さえも白で統一されており、U字型のテーブルまでも白色だった。

 その中で唯一違う色の家具は代表の座る椅子だけだ。

 真紅の椅子にいつも座る代表は内側から光を放っているような神々しさすらある。



 珍しく出かけているのだろうか。



 せめて報告書を置いて行こうかと思ったが、手ぶらで来てしまっている。

 作り直している間にエルガが戻って来るかもしれない。

 勝手に入っておきながら、書き置き残さないのは失礼かもしれないと朝の失態を取り戻すべくリチャードは頭を働かせる。


 胸ポケットからペンを取り出し、手近な紙を求めてエルガの机に近付いた。

 引き出しがあるのでは、と椅子のある方へと外側から回り込む。

 この位置まで来るのは初めてだ。



 今、エルガが戻って来てしまったらどう思うだろうか。



「(慌てないのが一番だ……)」



 もしもエルガが戻ってきたとしてもこちらからフランクな挨拶をして、爽やかに仕事の順調さをアピール。

 そして書き上げたメモを見せながら速やかに退室する。



 ここまでイメージトレーニングが出来ればもう怖くない。

 ジャッジにしたように、軽いジョークも交えられたら最高だ。



「引き出し一つ無いなんて……まさか……!」



 どこを探しても引き出しもメモになりそうな紙一枚見当たらないのだ。



 毎朝リチャードが報告の際に持ってきている郵便物の封筒も無い。

 自室のドアの前に積み上げられている危険物チェックの終わった郵便を宛名を見てエルガに渡す物かどうかを振り分けるのはリチャードの朝一番の仕事だった。

 机の下に潜り、本当に引き出しや書類入れが無いのかと構造を探っている時に手に持ったままだったペンを取り落として机の下を軽快に転がってしまった。



「……良い子だからこっちにおいで。……はぁ、これも冗談」




 机の下を這いずるように進み、ペンを手にした時にドアが開く音が聞こえた。

 リチャードはこのまま眠ってしまえたら、どんなに楽かと思った。



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