第二百一話 書庫へお泊り
SODOMの書庫は一つではない。
リチャードがそのことを知ったのは最近だった。
今、リチャードは以前に鍵を借りて入ったジャッジという電子生命体のいる書庫とは比べものにならないほど機密性の高い書類で溢れている書庫の中にいる。
ここは銀行の金庫と同じセキュリティを導入しているらしい。
事細かく日々の各部署の仕事内容が記された日報や、動き続ける金銭の記録、来訪者の記録、取引先の名簿などSODOMの歴史そのものが一日ごとに棚へ納められていくのだ。
まるで国が運営する図書館のような規模の書庫は魔法により、外観ではビルのどこに位置しているのか分からない。
辿り着くまでも、幾つもの検査をパスしなければならず、リチャードが書庫の中へ入れたのは出発からおよそ四十分が経過した時だった。
「こんにちは、ミスター」
誰もいないはずのこの空間でで声を掛けられ、リチャードは飛び上がった。
振り向くとそこにはジャッジが立っていた。
「君は……久しぶりだ。元気にしていたかい?」
「電子生命体に体調不良があると?だとしたらそれはバグやシステムエラーです。人によっては私の姿が見る度に変化するそうですが……貴方は違うようですね」
すぐにジャッジと認識したことで、彼は初めて微笑んでみせた。
確かにジャッジの姿は初対面の時と同じ、スーツ姿の中年の男性だった。
驚くほど綺麗な顔をしているわけでもなく、かといって崩れているわけでもない。
本当に平凡で、もしも街中ですれ違ったとしても気が付かないだろう。
「資料の数が膨大ですので、私がご案内します。何をお調べ致しましょう?」
「そうだな、私の前任者…ボーンが魔法技術開発専門学校に依頼した仕事に関する書類を全て調べたい。……微笑むように、なったんだな」
「ええ、ご要望がございましたので」
リチャードは皮肉を言ったつもりはないが、上手く返されてしまった。
笑うべきか睨むべきか迷っている内にジャッジはリチャードよりも先を歩む。
「では、少々お待ちください」
瞬きした次の瞬間、ジャッジの手には胸の下から顎の辺りまで積み上げられた書類が用意されていた。
これに目を通すのは並ではない。
「困ったな……」
一体どの位の時間が掛かるのか、そういった事は考えないことにした。
それよりも電子生命体であるジャッジがどうやってこの書類を持っているのかが気になったが、以前にも握手をした時に温かさを感じた事を思い出し、疑問は飲み込むことにした。
反対に、ジャッジから生命機能や指の動かし方、表情を作る過程を聞かれたとしても困ってしまう。
きっと、そういうものなのだ。
この世界に存在するというのは、難しい事ばかりではない。
「ありがとう、こんなに早く仕事をこなせるなら他所でも好待遇だ。転職を考えてみたらどう?」
ジャッジは口をへの字に曲げてなんとも言えない顔になった。
その反応が嬉しくて、リチャードは書類を受け取りながら笑いを噛み殺す。
「冗談だよ、はあ……久しぶりに計算や緊張の無い会話をした。ジャッジ、君のファンになりそうだ」
「そうですか。お忙しいようですね、何かお力になれる事があればいつでもどうぞ。ちなみに、そちらの書類は持ち出しは禁じられております」
最後の言葉は流石に冗談であれ、とリチャードは願ったが、彼が眉をひそめて続けた言葉は笑いを誘うようなものではなかった。
「持ち出す時は私を削除する必要があります」
「なんだって!?」
第一の驚きはこの膨大な書類を物音一つしない、この閉鎖的な空間で目を通さなければならないということ。
ただでさえ外出の扱いになりそうな道のりを一体何度往復すれば良いのかという、驚きもあった。
第二の驚きは、さらりと言ってのけたジャッジの最後の言葉だった。
ブラックジョークを返してきたのかと期待したが、至って真剣なようだ。
「……まさか! 君を消すって?私がそんな事が出来るはずないだろう」
「いいえ、可能です。リチャード・アッパー様。貴方様はSODOMの現代表エルガ・ミカイル様と同等の権限を保有しております。貴方の指示一つで……」
「そうじゃない!」
実行できるか出来ないかの権限の話をし始めたジャッジに、リチャードは強く話を遮った。
「……はぁ、ジャッジ。君は人の形を模しているなら、もう少し……少しだけでいい。人の気持ちを読み取れるようになってくれ」
首を振ってみせたがジャッジはただ、リチャードを見つめている。
「……私は、君を好きなんだ。せっかく笑いながら会話できる……笑っているのは私だけだけど。とにかく愉快な話し合い手を見つけたんだから削除なんてするはずないだろ」
「申し訳ございません。誰かに加担するような事があってはなりませんので、そういった感情プログラムは形成されておりません。……となれば、この書庫へと足しげく通って頂くかここに泊まり込むか……のどちらかになりますがよろしいですか?」
「……君を無視してここから書類を持ち出す、というのは?勿論返すさ!」
ダメもとで言ってみたが、ジャッジは冷静に返してくる。
「……我々が属する企業は何の企業でした?ここにある高機密書類が万が一にでも誰かの手に渡るというような事があってはなりません。無事に出られると思いますか?」
「……今のも、冗談だよ。電子生命体でもジョークの一つは覚えた方が良いと思うけど。じゃあ、今日はここで過ごすよ」
無表情のまま、通り過ぎるリチャードを目で追うとジャッジは肩をすくめた。
机も椅子も見当たらないので、床に書類を置いて隙間なく書類や帳簿が詰められた棚に背中を預けてあぐらを掻いて座り込んだ。
ジャッジは目の端に映る場所で身動き一つせずに次の来訪者を待っている。
茶の一つも出ないこの書庫は居心地は悪いが、集中はできそうだ。
「……音楽なんてかけなくていいし、昼食もここから一度出て一人で摂ってまた戻ってくるよ。お気遣いなく!」
「……どちらもご用意はありませんが」
「分かった上での言葉だよ、皮肉だ。一つ勉強になったな、いつか使ってみたらいい!」
再びジャッジが肩をすくめたのを見て、リチャードは少しだけ安心した。




