第二百話 エルガの涙
Zの職員はZ専用の新施設が完成するまでの間、SODOMの研究室を使うことになっていた。
渡された原案に目を通し終えたカリアの顔色は青白かった。
ふらふらと研究室を出ると化粧室に駆け込み、激しく嘔吐した。
「こんなの無理だ……!こんなの……間違ってる!」
洗面台で一人叫ぶが、その痛みに寄り添う者はいない。
「……でも、やらないと……フルラ……」
目を通したその中身は実に素晴らしいものだった。
まだ誰も着手していない研究開発の分野ばかりで、これが実現できれば一気にZと親会社であるSODOMの名は更なる進化を遂げるだろう。
環境維持、そして改善の大規模な処理施設。
少ない魔力を大きな力へと変える変換機。
この内容はもはや一企業が取り掛かるような開発ではない。
その大々的なタイトルの先を読み進めても、太陽の光を利用してエネルギーを蓄えて利用したりとこれまで以上に精密で、機能の良い案ばかりだった。
ここまでは良かった。
SODOMの力をむざむざと見せつけられたような気がしたが、こんな事にならない限り、このような研究に携わる事はまず出来なかっただろう。
兵器で有名なSODOMから分離した、環境問題に取り組む健全な会社であるようにイメージを植え付けるには十分過ぎている。
全てを作り上げ、稼働が確認されたとしよう。
もちろんその取引は世界中の国相手となる。
どのページにも載っていないZの真実に気が付いている者は今の所、自分一人だというのもカリアは分かっていた。
巧妙に仕組まれたこのレールは下り坂だ。
少しでも押されてしまえばもう止められない。
その恐ろしさにカリアは拒絶反応を起こしていた。
独りではとても抱えきれない。
「……カリア?大丈夫?」
化粧室のドアを挟んでヴィヴィの心配そうな声が聞こえた。
洗面台の鏡に映った自分が余計な事を言うなと念を押すように睨んでいる。
「……ああ、ちょっとまだこの環境に馴染めなくて」
多少の声の震えはヴィヴィには届かなかったようだ。
「そっか~、カリアは人見知りだもんねん。ヴィヴィもやっぱこういうエリートって感じのトコ好きじゃないなあ。みんなつまんないんだもん」
「……ヴィヴィが個性的過ぎるんじゃない?」
「そうかしらん。でも、ヴィヴィは……カリアがいてくれて良かった。ホントだよん! その……こんなコトになっちゃったけど……、あの内容を見てちょっとやる気出ちゃった! リチャードがあんなに脅すからどんな研究をさせられるのかと思ったよん!」
いてくれて、良かった。
それはカリアも同じだ。
ヴィヴィがいたから、ここまで来れたのだ。
もしここに、一人きりだったとしたらと思うとぞっとする。
まだむかむかとしている胃と口の中の不快感はいくら口をゆすいでも取りきれない。
「……一緒に、頑張ろう。ここまで来たら、ずっと一緒だ。何があっても」
「……うん! なはは、照れちゃうな~ん。マラタイトのみんなで作り上げた全部は消えた訳じゃないし、ヴィヴィ達の頭に残ってるから……いっちょZを盛り上げてあげますか!」
明るく振る舞うヴィヴィはきっと分かっていない。
自分達がこれから恐ろしい扉を開く鍵を作ろうとしている事を。
「ヴィヴィ……」
「ん?どした?」
ようやくドアノブに手を掛けたが、開く力を込められない。
今ここでヴィヴィに真実を伝えられたら楽になるだろうか。
「やっと出て来た! ほら、行こ?ヴィヴィ達がメインで動かないと! どれから手付けようかねん!」
研究の主力として迎え入れられたことにヴィヴィはとても喜んでいる。
それは横顔からでも分かってしまった。
だからこそ、カリアは口をつぐんだ。
せっかく元気になった彼女を再び絶望の中へ押し込むことなど出来ない。
「……そうだね。張り切りすぎて邪魔にならないように気を付けて」
「なっまいき! カリア……さっきなんか言いかけてなかった?」
せっかくヴィヴィがチャンスをくれたというのに、今のカリアには語る事は出来なかった。
「……あー、フルラ……今頃どうしてるかなって思ってさ」
「……フルラは、きっと大丈夫だよ。んーん、大丈夫じゃなきゃダメ! じゃないと、ヴィヴィ達が死ぬ気で守った意味無くなっちゃうもん」
「そうだよな……」
人は誰かの為に生きられるのだろうか。
愛だの恋だのとそんな不確かなものにすがらなければならないなんて、情けない。
研究者たるもの、もっと確かなものを信じなければ。
そう、思っていたのに。
「(ヴィヴィには、言えない……)」
言ってしまえばきっともう、こんな風に後輩を思いやる優しい笑顔を見せながら同僚を思いやってはくれなくなるだろうから。
誰かの事を思いやり、考えられるのは余裕があるから。
余裕が無い人間が特定の人物に笑っていて欲しいと思うのは、たった一つの希望であり、すがり付く対象が欲しいから。
カリアはこの日から、考える事を止めた。
顔も名前も分からぬ世界中の人間の幸せを祈る事など出来ない。
出来る事は死線をくぐり、共に罪を背負った同僚の笑顔を守る事だけだ。
彼女以外にもう、何も無い。
誰が悲しんでも、誰が怒りに震えても、関係無いのだ。
× × × × ×
「失礼します、Zの近況を報告に……」
リチャードはノックをしてから、入室の許可を貰って代表室へ入ったはずだ。
それなのにエルガはこちらに背中を向けて立ち尽くしていたし、粉々になったティーカップの破片が中に入っていたのだろう液体に浸って床を汚している。
「……続けろ」
カリアとヴィヴィが精力的に動いてくれ、研究のスケジュールを練っている事、Zの施設建設も順調に進み、当初の予定より早まるという良い報告ばかりだ。
そのはずなのにリチャードの顔には緊張の二文字だけが浮かんでいる。
「以上です。……では、失礼します」
エルガを残して部屋を出てから、リチャードは何故かエルガが泣いているような気がした。
いつも冷静で、涙など不似合いな世界一の称号が相応しい代表だ。
「……そんなわけ、ないよな」
ようやく大きな仕事も一段落した。
これでやっと、気になっていた事に手を付けられる。
緩和された権限を使って側近の前任者であるボーンが、失踪したと言われている甲斐に一体何を依頼したのかを調べ始める時が訪れたのだ。




