第百九十五話 王子が向かう
今日、ロジャーはオーダーメイドスーツを下ろし、髪形にも時間を掛けて来た。
この会社、いやこの世界で今自分が一番輝いているだろう。
もしかしたら今日一日で沢山の女子社員に告白されるかもしれない。
そうなれば人生初の彼女が出来るのでは、そんな浮かれ切ったロジャーは部署のドアを開いた瞬間に真顔になった。
それは決して冷静さを取り戻したわけではない。
交通事故と旅客機墜落を同時に見たような顔に切り替わらざるをえなかったのだ。
ロジャーの席の向かいにいるのは仕事に慣れて来たビスタニアだ。
軽口を叩き合ったり、昼食だけでなく夜も一緒に美味い店を探して巡ったりと仲良く過ごしてきた。
それなのに、それなのにだ。
一月前のとある日に、午後から猛烈にやる気を出したビスタニアはいつも以上に仕事をこなしていた。
それはよく覚えている。
今日はデートか、と聞いたのも覚えているし、返事は眉を上げてふっと余裕めいた笑顔だったのも。
ビスタニアがデートに行くのは独り身のロジャーは寂しいやら苦しいやらと複雑な心境ではあったが、機嫌の良い彼がいれば仕事が捗るのでラッキーだとも思った。
幸せそうな彼を見ていると、特定の女性と愛を育むというのも悪くないとも。
「……うわあ、なあミシェル……」
「イヤ」
結果として今の状況は最悪だった。
あれから一か月が経つ。
ビスタニアは豹変していた。
常に苛々としたオーラを纏い、休憩中は仕事の資料やデータは全てしまわれてしまうというのにデスクから離れずに何度も通信が入っていないかと狂ったように確認している。
仕事に手が付かない、というのはまるで無い。
そのせいで誰もビスタニアに何も言えずにいた。
この機関の中で不真面目な部類に入るロジャーは隙を見ては周囲と談笑したいのだが、年数の経った今や誰も相手にしてくれない。
話が長い上に変わり者という周囲が正しく認識している彼に付き合えるのはビスタニアぐらいだった。
だが、今やそれさえも敵わず、話しかけるなという無言の圧力に屈してしまっている。
ロジャーはどうにかこの状況を打開しようとしたが惨敗していた。
「ああそうかよ! もしかしたら遊園地のチケットを譲ってやろうかとかそういうプラスな誘いだったかもしれねえのに!」
「そう? それはとっても残念。じゃあ一応聞いてあげる、なあにロジャー?」
ロジャーがミシェルのデスクに腰を下ろした。
「……遊園地のチケットぐらい安いもんだ! 買ってやるよ! だから席、俺と代わってくんねえ?」
「……イヤ。ナヴァロ代表のご子息が来た時、覚えてる?忘れたとは言わせないわ! 私が仕事が山積みで! 困ってたのに! アンタは能天気に! 私のデスクごと移動させて! 崩れた書類に足跡を付けて! 勝手に今の席にしたんでしょ! 『よお、俺はロジャー!仲良くやろうぜ新人君!』なんてキメ台詞を言ってたわね!?」
彼女の恨みは深いらしい。
このままでは自分以上に話が長くなりそうだと察知したロジャーはお手上げのポーズを取って屈した。
「分かったよ、ミシェル! 分かった! 降参だ! 交渉決裂だな!」
鼻息荒くまくし立てられたロジャーは腹を括り、席へ向かう。
赤い髪の毛は少し伸びたように見える。
「おはようさん」
「……おはよう」
まだ始業時間前だというのに、ビスタニアはもう通信チェックを始めている。
内線のヘルプをこなしているようだ。
「余計なお世話かもしれないけど、休み取らないと勧告されるぜ。しかも上司にも警告がいくからな。迷惑かけたくないならスマートに休む時は休んでおきな」
「ああ、明日から暫くそうさせてもらう。今日中に全ての仕事を終わらせて行くが、何かあればロジャーに言うように言っておいた。留守を頼む」
「おお、旅行か……あん? なに?」
聞き返したロジャーに対しても、ビスタニアはようやく顔を上げた。
「悪いが今、忙しいんだ。やる事が山積みでな」
久しぶりに見たビスタニアの笑顔につられて笑い返すと満足そうに頷いて、笑顔を引っ込めると下を向いてしまった。
始業時間となり、一斉に通信機器やデータファイルが表示される。
慣れた手つきで複数の案件を表示して思考を巡らせながら、向かいでまだ何も手を付けずラテを飲んでいるロジャーに申し訳なく思った。
この一月、彼がどれ程困惑しているか痛い程分かっていた。
ロジャーの言う通り、甲斐と久しぶりの夕食の約束をしたあの日に時は遡る。
定時で仕事を片付けて自宅に戻り通信をかけたが返って来たのは呼び出し音だけだった。
もしかしたら任務に出ているのかもしれないと思い、二時間ほどの時間を掛けてシャツにアイロンをかけたり、食事の準備をしたりと家事に精を出した。
愛する者が危険な地に出向いている事を快く送り出せる時はきっと来ないだろう。
付き合っている、といっても会える日は少ない。
いくら甲斐があの性格だといっても、寂しい時も辛い事があった日もあるだろう。
傍にいられない分、通信で話を聞いたり、自分にしか言えない言葉を伝えたかった。
掛け直しの一つもないので、再び甲斐に通信をかけ直した。
だが、やはりコール音だけが鳴り続けた。
着信があった記録も残るし、まさか忘れて眠ってしまったなんて事もないだろう。
すっかり冷めてしまったパスタと、ガラスボウルの底に溜まってきているサラダの水気を見ても食欲は湧かなかった。
通信が繋がらないなどと言って彼女の職場に問い合わせるような真似はしたくなかった。
「(きっと、仕事が立て込んでいるんだ)」
忙しいということはそれだけ頑張っているという事だ。
約束を気にしているのは自分だけではないだろうし、そわそわしながら任務に励む彼女を思い浮かべるだけでふっと笑いが込み上げる。
メッセージを残してやりたいが、甲斐は設定をしていないようでいつまで待っても録音へ進まなかった。
サラダだけを口にして、通信機器の音量を最大にするとビスタニアはベッドに入った。
朝になっても、翌日になっても、一向に鳴らない通信機器が壊れたのかと思ったが問題無く使える。
甲斐の身に何かが起きたのだと気が付いたのはその時だった。




