第百九十四話 それから
「……おはよう、子犬君」
これは、誰の声だったか。
やけに鼻に残るこの匂いは消毒の匂いだろうか。
目に暴力的に入り込む白い光に耐え切れず、すぐに目を閉じた。
「コラコラコラ! 待てっつーの。アンタ、どんだけ寝てたと思ってんの!」
やかましい声が眠りにつくのを妨げる。
今は何も考えたくないというのに。
「ほら、まず目ぇ開けて。オッケー、この棒を目で追ってね。……うん、自分の名前言える?」
覗き込んできたのはヴァルゲインターだった。
思い出すのに少し時間がかかった。
目を開いているのも辛い。
やっとの思いで声を出したが、思った声色は出なかった。
「……ばかに、してんのか……?」
「いいからとっとと質問に答えろこのクソ犬! 私はこれからアンタの返答一つでリハビリのプランを練り直さなきゃならないかもしれないの!」
ふざけているわけではないらしい。
だが、大真面目に自分の名前を答えるというのもバカげているとシェアトは思った。
「シェアト……セラフィム」
「はいオッケー。あんたを蘇生させるのにかなり投薬したから、脳機能だけが心配だったんだよね~あはっ。ああ、体はなんともないしもう少し頭ん中落ち着いたら起き上がってもいいよ。まだリハビリはさせられないけど」
「……そうかよ」
身を起こそうとしたが、ヴァルゲインターに両肩を押さえられてしまった。
眼鏡の奥の瞳からは強い意志が感じ取れた。
「……このまま……襲っちゃおうとか……考えてねえだろな……」
喉が渇き切っているせいか、上手く声が出せない。
冗談を言ったが、うまく表情が作れなかった。
体が自分のものではないような、そんな錯覚に陥るほど頭と上手く繋がっていないような気がした。
「……まだ、寝てなさい。……アンタには体のリハビリだけじゃなくて、心のリハビリもしなきゃなんないんだから」
「ハッ……ココロのリハビリぃ……? 何を言い出すかと思ったら……」
シェアトと同じように、ヴァルゲインターもうまく笑い顔が出来ないのだろうか。
「おい、頼むぜ。……まさか、マジで言ってんじゃ……ねえよな?」
ようやく寝かされているのが自分のベッドではない事を認識した。
消毒液の匂いと白すぎる視界、そしてヴァルゲインターがいるという事は間違いなく治癒室だ。
違和感だらけの体なのは負傷したのだろう。
ここでやっと、何かを頭の中から掻き消していることに気が付いた。
負傷した?
ということは任務でだろう。
こんな大怪我を負うような相手だっただろうか。
「……無理に思い出さなくてもいいよ。今はね。嫌でも浮かんで来るだろうさ。とにかく今は休養を取って――」
もう、聞こえない。
何か、何かとてつもなく恐ろしい事をしてしまった。
―――金色の髪と瞳
―――色の白い肌
―――懐かしい声
―――微笑んでばかりの口元が動く
『あの時、皆殺しておくべきだった』
やめろ
『友人なんて最初からいない』
あいつはそんな奴じゃない
『君を、始末しに来たんだ』
俺に引金を引かせるな
『すぐに済むさ。次はカイの番だ』
「……俺が……、あいつを、殺したんだ……」
「あいつって? ……何を見たのかは知らないけど、それは幻覚だったんだって。それもネオと後続の隊員から裏付けが取れてるから安心しな。幻覚のせいで実際は一緒にいたネオを攻撃したんだけど、仕方なかったんだからさ」
「……はは……俺が、ネオを……? やべえな、何言ってんのか分かんねえ……。幻覚だあ? 確かに、確かにあいつは……俺が……」
「…シェアトとネオが乗り込んだビルの最上階には二人しかいなかったんだよ。そこで魔力装置があったらしくて、二人はまんまと引っ掛かり、相討ちさせられかけたって話。分かった?」
身を起こし、発作的に背にしている壁に拳を打ち付けた。
ヴァルゲインターは眼鏡の位置を直し、シェアトの様子を注意深く伺いながら言葉を繋ぐ。
「見たものは幻覚だし、ネオも生きてる。あー……標的は五センチぐらいまで薄くなってたってさ」
これが彼女にとってのジョークなのだろうか。
やはりちっとも笑えそうにない。
「そんでシェアトはあまりにも濃度の高い魔力にあてられたのと、内容が内容だと思うから体だけじゃなくて心のケアも必要だって言ってんの。傷つかない人間なんていないし、触れられたくない部分なんて皆あんだから」
「……必要ねえよ……。幻覚、か……。それはどうだろうな」
ふい、と顔を背けてしまったシェアトを少し見つめてからヴァルゲインターは出て行った。
どうしようもない気持ちに押し潰されそうで、今は何も考えたくなかった。
治癒室を出たヴァルゲインターはシェアトが目覚めた報告と共に、彼の状態を伝える為にダイナのいる上官室へと向かっていた。
「……珍しいね、あそこから出て来るなんて」
シルキーがじろじろとヴァルゲインターを見ながら言う。
「……任務に向かう途中で話しかけてくるのも珍しいじゃん、チビちゃん。期待通りかは分かんないけど、シェアトが目覚めたよ」
「……へぇ、あっそ」
そっけなく答える癖に、シルキーは足を止めた。
笑いそうになりながらも、ヴァルゲインターは気になっているであろう話を提供してやる。
「……カイは、まだ掛かるよ。すっからかんにした魔力をゆっくり戻していくのにも時間が掛かるから。強制的に満タンにしてもいいけど、廃人になった部下を連れ歩きたい?」
「あいつは元々気が触れてるような女だから、変わらないんじゃない? 試してみたらぁ?」
鼻を鳴らして皮の手袋を履きながら任務に向かうシルキーの後ろ姿を見送りながら、独り言のように声を落とす。
「……顔の傷、治さないのはなんでかなあ。時間もかかんないってのに……可愛い顔してんのにさあ」
左半身に焼き付けられた稲妻による痛々しい傷跡を修復しようとした時も、一筋も消すなと噛み付くように言われたのだ。
視力だけは回復しなければ仕事に影響が出てしまうので治す事にしたのだが、シェアトだけでなくシルキーにも何かしらの影響があった事は確かだった。
全員が負傷して帰還するという珍しい任務を終えてから気が付けば一月が経とうとしていた。
シルキーが連れて帰って来たシェアトと甲斐は重傷で、先程シェアトが先に目を覚ましたが甲斐は今も隣のベッドで眠っている。
気力だけで意識を持ち続けたシルキーも酷い火傷と皮膚の引き攣れ、内臓も幾つか損傷していたが治療を終えた翌日にはまた任務に飛び回っていた。
ネオもシルキーと同じく、今もどこかで任務を遂行している。
「姫を起こす王子はどこかねえ……」




