第百七十五話 傷だらけの観測者
「ミューさん……?」
星空の中、天も地も無きこの空間で白い少女は確かに存在した。
床に正座を崩したような女性特有の座り方で足を着き、両手首を頭より上に鎖で繋がれたミューはだらりと顔を真下に向けたまま身動き一つしない。
お気に入りだと言っていた真紅のドレスは所々破れてしまっている。
頭の上に付けていたカチューシャは無く、ちょうど星の瞬きによって明るさが最高潮に達した際に見渡すと案外簡単に見つかった。
踏まれたのか軸の部分が壊れている。
「なんで……なんでこんなっ……。ミューさん、大丈夫ですか!?」
「……な……って……」
何かを呟いている。
意識はあるようだ。
肩の部分には深く爪を立てた跡や、吊るされている腕には自分で噛み付いた跡が残っていた。
どれもこれまで見た彼女の傷の中で一番深い。
「ミューは……なんで……みんなとちがうの……。ミューだって……」
「しっかり、ミューさん……。鎖……この鍵は……」
手首に付けられている金属の枷が外れない事にはミューを寝かせる事も出来ない。
どこに繋がっているのか分からない鎖は真上に伸びていた。
「クロス……クロス君……」
「はい……僕はここにいますよ、遅れてすみません……。何故こんな事に……?」
頭をゆっくりと上げたミューの顔を見て驚いた素振りを見せぬようにするのに必死だった。
彼女の両頬にはマジックで書かれたように真っ赤な線が縦に四本入っていた。
爪を立てて引き下ろしたのだろう。
「ミューが……ミューが悪い子だから……。でもね、ミューね、みんなと違うの」
「ミューさんは悪い子なんかじゃないですよ……。何があったんですか?」
「これはこれは。今年の新人は随分と優秀なようだ」
開けたままにしていた細いドアの隙間から見えたのはこちらを覗く、可愛らしい熊の着ぐるみだった。
太い声に振り返ったクロスは今度ばかりは顔全体で驚いた。
明らかにオーバーしている体積をドアの隙間にねじ込むようにして、中へ入ろうとしている。
膨らんでいる腹を両手で潰しながら体を横にして懸命に中へと爪先立ちで歩みを進め、どうにか体全体が中へ入ったが顔だけが外という狂気すら感じる状態だ。
「(怖い怖い怖い……! なんだアレ!? なんだアレ!? 普通に入って来ようとしてる……! 閉めときゃ良かった……閉めときゃ良かったーー!)」
熊はどうにもならないと踏んだのか、着ぐるみにあるまじき大きなため息を吐いて肩の骨を鳴らした。
そして焦げ茶色のふわふわとした毛に包まれた両手でドアを掴むと時折足蹴りを入れながら隙間を広げ始め、ドアをガタガタと不穏な音を立てながらどうにか通れそうな状態にまで開く事が出来た。
とうとう関節的にあり得ない方向まで向いてしまった頭を乱雑に元の位置に戻すと、真っ黒な丸い瞳と目が合った。
丸い足が床を踏む度にピィピィと高い音が鳴る。
首には真っ赤なリボンが結ばれていた。
「猫の手も借りたい、といった状態のようだが君は自分の仕事が終わったからここにいるのか? しかしダメだな、最近の若者は。自分の分が終わればそれでいいと思うのか……。先輩や上司の仕事を手伝う位のガッツが欲しいものだ」
「あ……すみません……」
謝ったのは与えられた仕事すらも放り投げて来てしまったからだった。
一体どこの誰なのかは分からないが、口ぶり的には上司のようだ。
こっそりとこうしてミューに会いに来たなどと知れたらどうなるのだろう。
「……で、お前は何しに来たんだ? ミューに仕事を頼みに来たならちゃんと弁解しろ。相手によって委縮するなんて論外だ。謝るなんて特に、な。手ぶらに見えたからこちらも軽口を叩いただけだ」
「いえ……あの……すみません、ただ……彼女に会いに来たんです」
あぐらをかいている熊の横でミューの手に繋がれた枷をどうにか外せないかといじっていると、不意にミューの明るい声が聞こえた。
「くまさん! こんにちは! くまさん! 来てくれたの!?」
「……ミューさん、お知り合いなんですか?」
「うん! くまさんは悲しいことがある時に、来てくれるの。すごく優しいんだよ」
「ミューちゃん、大丈夫? 僕がいるよ。早く、元気になってね」
クロスより縦も横も大きな熊はミューの頭を優しく撫でた。
こんな状況でもミューは屈託なく笑い、熊が少し離れた場所でバタバタと下手くそな踊りを踊っているのを声を上げて笑った。
そしてミューが憑き物が落ちたようにまた頭を下げながらうわ言を呟き始めると、熊は爪が割れてしまい流血しているクロスを出口に手招いた。
「……素手で外せた事があるのか? 無いなら無駄だ。」
「あの……僕は新人のクロス・セラフィムです……。その、貴方は……? (熊に対する敬称ってこれでいいのか?……いやっ、何考えてんだ僕……これそもそも熊じゃないし中に人入ってるタイプだな……)」
「クロス? ああ、今日の会議で標的にされる奴か。……お前か! ミューになんてことしてくれたんだ……。ああ、クソ!」
ぽこぽこと頭や体を滅多打ちにされているが、ぬいぐるみをぶつけられているような感覚だけで痛くはない。
それよりも荒ぶる熊が口にした言葉の方がよほど気に掛かった。
「標的……? 僕が何か……?」
「とぼけるなこのオス野郎! ミューがお前の毒牙にかかったおかげであんなザマになったんだ!」




