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第百六十六話 着地点

 この状況でも、ヴィヴィは自分以外の事を気にしていた。

 リチャードはそんな彼女に微笑みかける。


「フルラさんが持っているデータは……マラタイト研究所の皆さんが長い年月をかけて作り上げた財産です。それを悪用されたり、盗用されるような事があってはなりません。ヴィヴィさんがもし、私の提案に乗って下さるというなら……フルラさんの再就職先は面倒をみましょう」

「ただより高いものは無い……ってねん。ヴィヴィをここから出してあげるからアンタのとこで研究者として働けってことでしょ? ……それに、フルラまでアンタらソドムに取り込もうったってそうはいかないんだからね!」


 野良猫のような女性だと、リチャードはヴィヴィを評した。

 この状況でも誇りを捨てずに、立ち向かう気概は素晴らしい。


「それは違うわ。彼女が再就職を研究者として望むのであれば、私の元で是非働いて貰いたいと思っているの。……フルラさんが良いと言うならだけど」


 一定の間隔で揺れている所長が、口を挟む。

 

 彼女が一体何を言っているのかヴィヴィには分からなかった。

 研究者として望むのであれば、刑務所の所長の元で働く?

 とうとう頭の中までこの高い室温が回り、のぼせてしまったのだろうか。



「……ヴィヴィさん、所長はアルビダ・マシューさんという研究者で」

「アルビダ!? アルビダってあの!? 兵器研究の革命家の!? 世界中の研究者に『ノー・アンサー』と言わしめたあの本の出版者!?」


 思わず立ち上がったヴィヴィの勢いで椅子は倒れた。

 やはり研究者の間では伝説のような人物なのかとリチャードはアルビダの名の力を思い知る。



「でもでも、アルビダは行方知れずって……え!?」



 頭を抱えているヴィヴィの口元は笑っていた。

 思いがけないサプライズにアルビダをじっと見つめている。


「アルビダさんの外見と名前はここでは全て偽っているんです。そうでもしないと彼女の命が危なかった。幸い、民警が守るように当時の上の者が動いたので今でもこうしてここで働いています」


 リチャードが説明している最中も、ヴィヴィはぽーっとした顔でアルビダを見ていた。


「外見を変える魔法はかなり厳しく制限されていますが、事が事でしたから許可されたそうです。最初は看守として働くのを条件にしていたようですが、そこから今に至るまでに出世を重ね、所長にまで登り詰めたんです」

「褒められたから褒め返さないと……ねぇ。彼は本当に真面目な人よ……。年を重ねるごとに人はこだわりばかりを固めていくのね…魔法を使うことに抵抗のある私は、彼が最初私をSODOMの研究者として勧誘に来た際に断るだけに止まらず、言語共通魔法を使う彼に苦言を呈してしまった……。でも、貴女を救い出そうとして動いた彼は再び私の家を訪ねて来たの。……今度は私の母国語をマスターして、ね」



 あの日した約束をこんなに早く叶えられたのは、毎日足を棒にして熱い日差しの中を駆け回るリチャードが取り扱いの少ない外国語の教本を探し回り、破れるほど読み込み、そして寝る間を惜しんで通信を繋いで会話のレッスンに明け暮れたからだった。



「マラタイト研究所の方針や今までの研究の成果を簡単にではありますが、調べさせて頂きました。……アルビダさんは兵器研究の第一人者でしたが、フルラさんの為に違う分野の研究を協力する事を快諾してくれています」

「給料も私から出しましょう。……といっても、毎日フルコースを食べられるほどではないでしょうけど」


 くすくすとアルビダは自分で言ったジョークに笑っている。


「私には子供がいないの、それにあの研究も私を施設から引き取った両親が残した遺産で暮らしながら趣味の一環で行っていたものだから意志を継ぐ者もいなかった……。人を育てる、という事も……研究で何かをこの世界に残すという事も結局一度も経験しないままだったのよ……。老い先短い私なら、研究データを盗んでどうこうなんて出来やしないでしょう?」



 あの有名な研究者を前にして、ヴィヴィは目を白黒させるばかりで何も言葉に出来なかった。

 こうして見つめている、たるんだ皮膚に隠れ気味の瞳は本物なのだろうか。



「所長になってから、ここへ出勤するのはこうして私のサインがいる時ぐらいよ。年も年だしねぇ……。この席を譲るきっかけが出来て良かったわ。研究所、といっても私の自宅の地下室になるけれど手入れはいつもしているわ。すぐにでも研究が出来るの」

「ただし……それも、貴女がこの話を受けて下さるなら……ですが」


 フルラを本当の意味で守れるかもしれない。

 これはチャンスだ。

 この先ここを出てから二十年も前の職歴をぶら下げて面接に行ったとして、どこが雇ってくれるのだろう。



 不本意な内容だとしても大好きな研究に変わりは無い。

 だが、ヴィヴィにはあと一つ気がかりな事があった。



「……カリアは? ヴィヴィは……フルラの事もあるし、やってもいいかなって……思ったけどねん……。カリアはこの先ずっと、受刑者として暮らしていくのに……ヴィヴィだけ外に出るなんて出来ないよ……。カリアがいたから、フルラも助かったんだよ……! ヴィヴィだけなんて……こんなの、ずるいよ……」

「……カリア・クォークさんですよね? 彼の方が保釈金が高かったです」



 リチャードが眼鏡を上げながら厳しい声で言った。



「ちなみに貴女と全く同じ事を言っておりまして……まだ話は保留となっております。もし、どちらも周りを考えずに己の自由のみを考えてすぐさまサインをするようでしたらこちらから話を取り下げるつもりでした。試すような真似をして申訳ありません、しかしこちらで望んでいる人材かどうかを判断するにはそれしかありませんでした。額が額なので、お許し下さい」


 一気にヴィヴィの瞳に涙が溜まっていく。

 今日まで堪え続けた熱い気持ちが栓を抜いたようにどっと流れ出していくようだった。




「……私は貴方達を軟禁しようなんて考えていません。多少の制約と誓いは立ててもらいますが、フルラさんとも自由に交流して下さい。ああ、そうだ。サインを頂いても?」




 口の端が上がりそうになるのを抑えるのは中々、難しい。

 これは大きな仕事を終えた安堵感から来るものではない。

 胸の奥から湧き上がる、熱い思いのせいだった。

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