第百六十五話 ヴィヴィの決断
ヴィヴィはペンを握ったが、書類を受け取れずにいた。
もし今、この場でサインをしてしまったら自分一人だけがこの生活から抜け出してしまう。
カリアはどうなる?
彼の判決は分からないが同じかそれ以上の年月をこの檻の中で一人過ごすのか。
信じているのは自分だけではないはずだ。
人生を賭けてもいいと思えたあの瞬間、フルラを守ろうと結託した相方もこうして罪を償うという名目で味のしない毎日を過ごしているのだと。
出所したら絶対に会いたい、やりたい事も同じだとそう信じている。
それなのに、どこの誰からかも分からない保釈金によってのこのこ檻の外へ出てもいいのだろうか。
カリアはきっと責めないだろう。
自由の身になれば彼の面会にも行けるし、全てを背負わせてしまったフルラにも会いに行ける。
だが本当にそれは自分勝手な考えに思えた。
「……やっぱり、罪は償うよん……」
「……あら、そう。でもまたとない機会よ。この保釈金を払って下さった方とお会いしてみたらいいんじゃないかしら。今日、貴女がこのお話を受けてくれるのではないかと期待してお迎えにいらしてるの。良ければここでお話したら?」
「えっ……!? こ、ここで!? べ、別にいいけど……誰だろ……あっ! すっぴんじゃんか……。うぅ……」
「諦めておかけなさいな。……ハロー? お通ししてちょうだい」
古めかしい機械を使って所長はどこかへ連絡を取った。
チン、と受話器を置いて目を瞑った彼女の前にあった椅子にヴィヴィが腰を下ろすと気が軋む音がした。
壊れるのではないかと思い、あまり体重をかけないようにと背もたれから背中を離して座り、髪の毛を執拗に手で撫でつけていると背後のドアからノックが聞こえた。
「どうぞ、お入りなさい」
「失礼致します」
入室した相手を見て、ヴィヴィはぽかん、と口を開いた。
「ま、マジで誰なのん……!」
「彼が保釈金を支払おうと名乗り出てくれたリチャード・アッパーさんよ」
メガネをかけた男性は暗いグレーの髪を右に多めに流し、高そうなスーツとネクタイを着こなしていた。
爪先まで一点の曇りも無い革靴もぶっ飛ぶ様な値なのだろう。
「……どーもん……。あの、ヴィヴィの事……奴隷とか人身売買とか…獰猛な肉食動物と戦わせたり、そういう風に使おうとしてるのん……?」
「初めまし……そんな風に見えてしまうんですね、何が悪いのでしょうか。……破格の保釈金を払い、身元を引き受けるには条件があります。是非、お願いしたい研究があるんです」
「……研究……?」
明らかに不審がっているヴィヴィにリチャードは名刺を取り出し、立ったまま渡した。
椅子から手を伸ばして受け取ったその名刺にあったのは『SODOM』の文字。
薄く、細い眉を吊り上げてヴィヴィはリチャードを睨む。
「ヴィヴィ、人殺しの手伝いなんて出来ないよん。誰かを悲しませる研究なんてしたくないもん」
「では、ここで残り二十年を過ごすんですね?絶対にこの先、貴女を救い出すような人物は現れないでしょう。この機会をチャンスと思うか、悪魔の契約と思うかは自由です。しかし、実刑判決の年数を見ても被害者がいないにしろとても軽犯罪とは思えませんね。……ここを出てから、どこの研究所が貴女を迎え入れてくれるでしょうか」
恐れていた言葉を面と向かって言われてしまい、ヴィヴィは反論も出来なかった。
リチャードの言う通りだ。
研究職は狭い世界で、どこの誰が何をしたという話はあっという間に広まってしまう。
些細な事ですらそうなのに、今回の様な事件を起こしてしまっては想像するのも嫌になってしまう。
「生き残りとされている方が襲撃のあった研究所に出入りしているようですが、残された研究を続けるにせよ……その資金はどうするのです? 彼女は新人として報道されていましたが、それが事実ならば今まで先人の行っていた研究結果を新しく務める研究所に献上して働き始める他ないでしょうね。……となれば、貴女の行く末は? 彼女が新しい研究所を立ち上げるとは私には思えませんね」
期待していた。
まるで当然のように考えていた。
襲撃事件で無事な研究資料をフルラに託したのは火事場泥棒の手に渡したくないという気持ちと、彼女が今までの自分達の意志を継いで研究を続けてくれるのではないかという思いからだった。
今、フルラはどうしているだろう。
研究所に出入りしているとリチャードは言ったが、新しい就職先が決まったのだろうか。
彼女は何も知らない。
研究職に就いてからたった数ヶ月なのだ。
他の研究所の評判や特色、今までに起こした問題や所長の人柄も何も知らない。
上手い言葉に騙されて、研究データを渡してしまっているかもしれない。
一瞬のうちによぎったヴィヴィの迷いとフルラへの疑心をリチャードは見逃さなった。
「生き残った女性が研究所を設立すればいいのですが現実問題、難しいでしょうね。彼女は家庭を持っている。今後、子供が出来るかもしれない。貴女がここから出るまで働き続けられるでしょうか?」
フルラは、フルラの幸せがあるんだ。
自分とカリアの人生の責任を負う義務は無い。
彼女の幸せを考えるならば、何も期待すべきでは無かった。
欲を、出してしまったのだ。
未来を、考えてしまった。
それがフルラを縛り付けるものだとも思わずに。
「彼女を解放してあげませんか。その為の手も打ってあります。……まだ見ぬ未来を嘆くよりも、今涙している人を救いませんか?」




