第百三十九話 マラタイト研究所
「じゃあ、行ってきます」
朝の早いウィンダムを送り出してから、世話をしている植物達に水をやり終えたフルラはガラス張りの庭園の中で笑いかけた。
声こそ聞こえぬものの、どの子達もキラキラと輝いて返事をしてくれているような気がする。
エプロンを外して玄関の前にある鏡で軽く姿を確認すると、パステルピンクの小さなハート型のポシェットに頭を通した。
ふんわりと広がるAラインのスカートは温かみのある配色に大き目のチェック柄で、柔らかなシフォン生地のシャツの首元には赤の細いリボンを蝶結びにしている。
極力外を一人で歩かぬようにと妻を心配する夫ウィンダムは二人の暮らしているこの家の中に転送装置を設けた。
それにかかる費用は並ではない。
かなり高額な見積もりを見た時のフルラは立ち眩みを起こした。
解放されている最寄りの転送スポットを使用すればいいのでは、とせめてもの抵抗をフルラは口にしたがウィンダムは断固として譲らなかった。
絶対的な安全は金では買えないが、こうして危機回避ができるのであればそれに出資を惜しむのは良くないと言って聞かなかったのだ。
結局ローンを組んでまで設置したが、その支払いは全てウィンダムが請け負っている。
生活費としてフルラがウィンダムに初任給を丸ごと渡した時にはさめざめと泣かれ、一切金銭的な心配はしなくていいから君の好きに使ってくれとあまりの剣幕で言われてしまいこれも聞き入れてしまった。
せめて出来る事としては食事の支度や、家の清掃だがお手伝い天使を二人も雇われてしまい、家に帰れば仕事の取り合いとなっている。
あまり役に立てていない気がするが、ウィンダムからは不満どころかそんなに気負わなくてもいいと言われてしまう。
仕事はウィンダムは統制機構というビスタニアのいる防衛機関の下の機関で働いていると聞いている。
統制機構がどのような業務内容なのか、フルラには分からなかった。
世界を背負う機関であることは間違いないので、忙しいはずなのだが毎日定時からきっかり十分後に帰宅して来るのだ。
おかげで夫婦の会話は多く、仲は良好だ。
一方でフルラは魔力研究所にて時折家に帰る事が出来ないほど研究開発に追われていた。
魔力を持った者が慣れない魔法でも使えるようにする為の補助器具『魔力器』。
これは今も昔も高価で、貸出のある学校もあるが代々家に伝わっている物を使用する場合もある。
フェダイン在学中はルーカスが借りていたが、その現状を見て開発を進めるべきはこれだと強く感じ、進路を決定した。
もちろん、入ったばかりのフルラは最初は雑用から始まっていたが最近は徐々に研究に参加させてもらえるようになっていた。
研究所の雰囲気は極めて良好で、フェダインの教員から紹介してもらえた職場なだけあってレベルが高い。
置いて行かれぬように、必死で勉強も欠かさなかった。
遅くまで勉強をするフルラを、いつもウィンダムは温かく見守ってくれていた。
× × × × ×
「おはようございまぁ~す……」
「おっはよん。フルラ、これあとお願い~。ヴィヴィもう寝る~」
「えっ!? あっ! わっ!」
目をしょぼしょぼさせながら、ピンク色の髪をボブカットにしているヴィヴィがふわついた声を出した。
化粧の濃いヴィヴィは私服もパンクで手首や首には黒皮のアクセサリーが巻き付けられており、どれも銀の鋲が付いていた。
研究所にいる全員がフルラより年上な事もあり、皆可愛がってくれている。
ぽん、と投げて渡された研究中の球体ガラスの中には魔力が入れられており、様々な要素をプラスして起きた反応を逐一ヴィヴィが目を離さずに記録し続けていた。
取り落としてはこれまでの過程が無駄になってしまう。
飛びついて抱え込むと、フルラは床を転がった。
「フルラ!? うそ~ん!? あんた魔法使えるんじゃないの~!?」
「いたた……。使えますけどぉ……失敗したら怖いじゃないですかぁ!」
両手でガラス玉を抱え、傷が付いていないかを確認するとようやくフルラはほっとしたように息を吐いた。
このマラタイト研究所はフルラを含め二十名で運営している。
それぞれシフト制で休みを取っており、定時はウィンダムと同じ五時となっているがキリが付けばそこで上がれるのだが大体は残業となってしまう。
ヴィヴィのように泊まり込みで研究にあたる事も珍しくない。
ちなみに魔法を使用出来るのはフルラと、この研究所の所長だけだ。
こうして魔力に関する研究をしていると試験的に使用データを取る際に非常に重宝されていたし、フルラが有名校の卒業生だという部分でも信頼があった。
「まーたいじめてる。おはよ」
まるで少年のように見える青年が出勤してきた。
呆れたようにヴィヴィを見るその瞳は彼の年齢が幼くない事を裏付けている。
「いじめてね~し。寝癖ついてんぞ! じゃねフルラ!」
「寝癖じゃなくて天パだっつの。フルラ、これ新しく記録して。ヴィヴィの字が汚くて読めないから……俺が清書するよ」
レポート用紙を新しく一冊丸ごとフルラの机に上げると、向かいのカップの置場すら無い机から積み上げられた研究記録をカリアが回収した。
身長はシェアト達に比べると高くないカリアは色白で、子供の様な顔つきをしている。
昔から熱心に研究に励んでいたらしく、一月毎に落ちていく視力はとうとう眼鏡では追い付かなくなり、医療魔法で視力を上げている。
黒いプラスチックフレームの眼鏡のレンズは度を抜いてあるが、かけていないと落ち着かないらしい。
続々と出社して来る研究員に泊まり込んでいた者が亡霊のように憑りついて、呪文のようにも聞こえる専門用語を並べ立てて引継ぎを依頼しては床に倒れていく。
最初は一々悲鳴を上げては駆け寄っていたが、今はもう気にもならなかった。
机の上に上がっている綺麗な白衣に袖を通し、ガラス玉の中で波打っては発光している魔力を見つめる。
ペンが当たる指の関節に出来た豆は、もう固くなっていた。




