第十三話 逃げるのが生きる為だとしたら
ドアを蹴り破って進む甲斐に腕を掴まれ、何度も前のめりに転びそうになる。
その度にヘレナよりも小柄な甲斐に力強く引き起こされていた。
しかし、ヘレナはとうとう限界だった。
ただでさえ子供を失ってからというもの、考える事も放棄して床に座り込み、何をすることもなく一日を終えてきた。
その様子を周囲は見かねたのだろう、気付いた時には入院させられていた。
それから変わった事といえば、定位置が床ではなくベッドの上になったという事と、強制的に行われる軽い運動の時間がある事だ。
消灯時間を過ぎてからこっそりとここに通うようになってからは自然と笑顔が浮かぶようになった。
そんな状態を見て、みるみるうちに回復したのだと医者が判断し、本人の強い自立心も後押しとなり退院できた。
ここまでは良かったのだ。
そもそも、立ち直りや心の治療など最初から望んでいたわけではない。
自由に外出する為だけに退院を目標に、医者へ愛想も振りまいたのだ。
息子とローレスのいる此処に通う以外の時間は必要最低限の栄養を取り、死んだように眠っていた。
そんな生活を送っていたヘレナに残っている体力はもう無かった。
足は上がらなくなり、転んだまま起き上がれなくなると甲斐も巻き添えとなってしまった。
「デヴァア! あ、顎打った……」
顔から転んだのか涙目で甲斐は顔を歪めている。
こんなに盛大に転ぶなんていつ以来だろう。
「な、なんか言ってから止まってよ! ……疲れたの?」
甲斐はダイレクトにこめかみが痛むようで、両手でぐりぐりと揉みながらヘレナを見ると喉から悲鳴の様な呼吸が聞こえた。
顔色は最悪で、どこか痛むのか胸の辺りを強く掴んで顔をしかめていた。
両足を投げ出し、両手を支えにするようにして座り、ヘレナが落ち着くのを待つ。
「ここに、置いて行って欲しい……。お願い……」
「はいダメー! 却下ー! 無理ー! 残念ー! さ、行くよ」
即座に否定するとヘレナの手首を掴んで立ち上がらせようとしたが、だらりと垂れるその手には拒否する力すら無かった。
担いででもここから脱出するのは可能だが、甲斐は再び彼女の前にしゃがんだ。
「……このまま、また、現実に戻ったってなんにも無いもの……。貴女と違って私は若くないの。あの子もいないし……私、仕事だってしてない……。でもね、頑張る理由だって無いの……。笑ってくれていいわ。だからね、本当に……記憶調整は、私の希望だったのよ……」
悲しそうに笑う彼女の瞳には光は無かった。
「今時のシニアナメんな! ヘレナさんよりもっと年取った人だって仕事してんだよ。やる気が出ないのは仕方ないよ、人生色々でしょ。でも、それが永遠に続くなんて思えないしヘレナさんだって言い切れないでしょ。これからこれから」
「その人たちとは、きっと私根本的に何かが違うのよ! 私と同じ境遇の人でも立ち直っている人もいるでしょうね! でもっ……私は、ダメだったの! ダメなのよ……」
「それも人それぞれでしょ。とにかく一日ずつ生きてく事を考えようよ。死にたくなくても死ぬときゃ死ぬんだしさ。……あとね、今って実はこんなしんみり人生相談してる場合じゃないさ」
「……え?」
いつからか甲斐と視線は合っていなかった。
彼女が見ているのはヘレナの背後。
恐る恐る振り返ったヘレナの頭に浮かんだ最初の感想は見なければ良かった、だった。
ヘレナの後ろには沢山の人がいた。
そこにはまるで見えない壁があるように手をつき、何度も拳を振り上げて叩き付けている。
皆、何度か待合室で顔を合わせたことがある。
ローレスを頼り、ヘレナと同じように記憶調整に通っていた人々だ。
「未来のヘレナさんはこのままだとあの中にいたんだけどオッケー?」
「あ、貴女民警でしょ!? 助けてあげて……!」
「都合良いなー! ここまで来ると逆に気持ちいい! なんで規制されたり、魔力抜くのが駄目だって言われてるか分かった? それにあたしじゃこいつらぶっ飛ばすしか出来ないし、とりあえず今は逃げようよ。ここじゃ通信も繋がらないから応援も呼べないのさ」
仕事という事を抜いても、甲斐は揺れていた。
本当ならばこの壁を取り払って今すぐ全員を病院まで引っ張っていきたい。
そう出来ないほど、彼らは壊れてしまっていた。
人の目はあんな風に回るだろうか。
獣のように唸り、転んだ拍子に刺さったのか棒が腹から飛び出ている者もいる。
今優先すべきは、最後の患者となるであろう、まだ自我が崩壊していない幸運な彼女を連れてここから脱出する事だ。
もしここでその迷いや不安を悟られたならば、ヘレナは付いて来ない。
信頼を勝ち取る為に、彼女を救い出す為に、腹に力を入れて不敵な笑顔を作り出したが、きっと自分が想像しているよりも間抜けな顔をしているんだろうと甲斐は少し自嘲した。
「本当に……本当に先生がこんな事を……?こ の人たち……本当に、助かる……のよね?」
「……今、あたしがこうして無駄な時間を掛けてまでヘレナさんを置いて行かないのはなーんでだ。助けようとしてんでしょ」
嘘が下手だと、昔から言われてきた。
だから、嘘は吐き出さない。
ただ、本当に彼らも助けたいと思っている。
その気持ちが伝わったのか、ヘレナの瞳に力が少し戻った。
「ほら、早く立って。奇跡が起きてこの壁が出来てる訳じゃないんだから」
二人、手を取ってまた走り出した。
今度は甲斐がペースを落としてヘレナに合わせている。
それに気付いた彼女は甲斐に合わせて少し足を早めた。
これは、罰なんだと思った。
子供を亡くした時、どこから何を間違えてしまったのかと思った。
私が生まれて来なければ、あの人と出会わなければ、引っ越して来なければ。
幾千の可能性と選択肢が浮かんでは消え、結局いつも時間を戻せたらいいのにといった空に夢を浮かべて終わる。
それでも今まで生き永らえてしまったのは。
息を切らし、正確に道を進む婦警の後ろでヘレナは視界が滲んでいた。
こうして無理矢理にでも外へ連れ出してくれる人を望んでいたのかもしれない。
ようやく足が止まり、先を見るとそこは壁だった。
どうやら行き止まりらしい。
床には病衣を着ている痩せた男が手を伸ばした状態で息絶えている。
「あっちゃー。また壊さなきゃかあ……でも天井にはどうしたってあたしの背じゃ届かないな……。てかこれ届く人は日常生活送れないだろうし……」
高い天井を見上げながらぼやく甲斐の足元に転がっていた男の手が動いたのをヘレナは見た。
微かだが、確かに指を伸縮させている。
甲斐は上を見たまま、どうやってここを出るか考えたままだ。
「あっ……だめっ……!」
咄嗟に甲斐の背中を突き飛ばす様に押すと、またも彼女は前に倒れていった。
堂々とした態度でこんな状況でも動じなかった彼女を頼もしく感じていたが、その体は軽く、簡単にバランスを崩したのに驚いた。
「うあっ……いたっ……痛い……! や、やめて!」
男の骨ばった手が、指がヘレナの足首に食い込む。
人間の力とは思えない。
簡単に骨が軋み始めた。
もう一方の手が伸びて来た時、転がった甲斐が放った火焔が男の病衣を燃やす。
痛覚まで壊れているのか落ちくぼんだ瞳で甲斐を捉えたが、ヘレナの足を掴む力は緩まなかった。
「燃えてるよ! ほら! いいの!? ……マジかあ」
煽る甲斐の言葉など聞こえていないのか理解できないのか。
甲斐は頭をかきながら、少し気になる発言をする。
「頭踏み割るのが手っ取り早いのに……うーん、二本あるから一本位いいかなあ……。無事って要は命に別状なきゃいいんだよね? そうだよね?よし」
「ちょ、ちょっと……?何しようと……」
「薪割りみたいなもんでしょ? いけるいける! した事無いけど大丈夫大丈夫! よっこら……しょいとおいやあ!」
そう言うなり甲斐は大きな斧を召喚し、大きく振りかぶって肘の辺りから男の腕を切断した。
床に接した斧の音が響き渡る中で、ヘレナは意識を失った。




