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第百三十一話 ヴァルゲインターのカウンセリング

 一方、何度も後ろを振り返りながら治癒室へ到着した甲斐は、そのドアを前に高速ノックを触れるか触れないかのギリギリの線で行った。

 鳴ったか鳴らないかの瀬戸際のノックのせいだが、心底ほっとしたような表情を見せる。

 意気揚々と甲斐はそのまま回れ右をして自室へ戻ろうとした時だ。



 中から返事が聞こえた。



「……一体どんな耳してんの……? ますます入りたくないわ……」


 

 悪態をついてから、治癒室のドアを開く。


「あら、カイじゃん。一人? あのうるさいワン公は連れてないの?」

「一人だよー……。ていうか、あたしが患者……みたいな?」


 キャスター付きの丸椅子が置いてあるので甲斐が足を広げて座ると、私服のホットパンツから出ている太ももにひんやりと冷えた合皮が当たった。

 治癒室は温度と湿度が高いので、息苦しさを感じ、上に着ているショッキングピンクのポロシャツのボタンを外した。


「あー、はいはい。聞いてるよ。それにしては来んのが遅かったねえ、逃げようとした?」

「ははは、豪速ストレートで来るね……。だってヴァルちゃん怖いんだもん……」


 丸メガネをきらりと光らせ、怪しく笑うヴァルゲインターは増々恐ろしい。



「人殺せないって別に普通の事なんだけどねー」


 

 ふぅ、と息をついてようやく机の上にペンを投げ出し、甲斐の方へと向き直る。



「でもなんだろ、ここ志望したのはカイなんでしょ?」


 

 首元をばりばりと掻きながら聞く彼女の目は寝不足のせいか、少し赤いように見えた。

 


「そうだよー。あ、ありがと……」



 片手間に飲み物を用意してくれ、甲斐へ手渡す。

 中には妙に薬臭い飲み物が入っていたが、カップの飲み口は欠けていた。


 半透明な液体が入っているが、底は見えない。

 液体なのに少々の傾きでは動かなかった。


 熱くもなく、冷たくも無い飲み物が入ったカップを両手で抱えたまま固まっていると、いつの間にかヴァルゲインターは書類に目を通し始めている。


 彼女のトレードマークである大きな頭頂部のリボンはネイビーに白いドット柄だった。

 大きな丸眼鏡に光が反射して瞳が見えない。

 白衣から覗いているのは襟がリボンになっている薄いグリーンのシャツだった。



 部屋の中に充満している消毒液の匂いは、甲斐の気持ちをどこか懐かしくさせる。



 元の世界の保健室もこんな匂いがしていた気がする。

 もっとも、行くとしたら怪我をさせた相手を連れて行く時だったが。




「異世界から来た事を、気にしてんの?」




 唐突な質問の意味を甲斐は一瞬理解できなかった。



「へっ? ヴァ、ヴァルちゃん何を……!」


 にこり、と微笑むヴァルゲインターに甲斐はW.S.M.Cにきてから一体どんなへまをしてしまったのかと走馬燈を追い始めている。


「びっくりした!? 私は知ってんだよ、こういう時に困るでしょ。事情も知らないとカウンセリングとかちんぷんかんぷんだしさあ」

「ってことは……ちゅーいとかに聞いてたって事!?」

「そ~ゆ~こと」


 一気に脱力した甲斐を楽しそうに見ている。

 完全にからかわれたようだ。



「異世界人の腹開くの楽しみにしてたんだけど、最初の診察がこれかあ」

「……あのさ、マジで他の人には言っちゃだめだからね!?」

「わーかってるって! 私をなんだと思ってんの」


 関わりが薄いからか、いま一つ甲斐は彼女を信用しきれていない。


「あとメンタルケアの資格も持ってるから安心しな!」


 自信たっぷりにそういわれても、甲斐はぽかんと口を開けてよく分からないまま頷いている。

 その様子にヴァルゲインターはがっくりと肩を落とした。


「ああ、そっか……知らないよね。あんねえ、カウンセリングした中で得た情報とか、個人情報も絶対に漏らしちゃダメって誓いを立てさせられんの。だからカイがここへ入って来た時点で私が見聞きした情報は何一つ私自身の口から言えない状態になってるから。ついでに言うと、書面に残しても他の人には見えないから無駄っていうスバラシイシステムなの。ああ、盗み聞きしようとしてもくだらない世間話に変換されるから無駄ってワケ」


 ぺらぺらと話す内容を甲斐がこぼさず理解したとはヴァルゲインターも思っていないだろう。

 それでも甲斐はとにかく大丈夫、という内容だけは理解したようで、満足そうにへらりと笑った。


「そうなんだ! ……で……カウンセリングってさ……。あたしが、敵をちゃんと倒せないから謹慎ってこと?」

「んま、そーゆーコトだね。あ、でももしカイがそういうスタンスならもう荷物纏めてくれた方が私としても助かるんだけど。見たいドラマあるんだよねえ」

「いや、うーん……。別にスタンスじゃないんだけど……。ヴァルちゃん、聞いてくれる?」

「どうぞどうぞ」


 何から話そうかと、甲斐は視線をカップに落とし、飲み口を指でなぞった。

 欠けてもこうして使われるコップは、何か特別な思い入れがあるのだろうか。


 壊れても、必要とされる。

 それがとてつもなく、今の甲斐には羨ましく思えた。



 いくらでも、替えはきくはずなのに。




「……あたしって、いないはずの人間じゃん」

「うーん……まあ、そうだね。ただカイの案件見てるとカイがこっちに来てからその代わりにこの世界にいたカイがいなくなったんでしょ? それで帳尻合ってるからねー。その子がうちに入ったとは考えにくいし、カイはいないはずだけど今ここにいるし」

「てことはだよ? 本当はあたしがいなきゃ死ななかった人が死ぬんだなって思うと、どうしても……その、手加減しちゃうっていうか」



 そう言うと、ようやく飲み物に口を付けたが鼻に抜けていくアルコール臭が酷い。

 反射的にむせ返りそうになったが全く喉を通らないどころか、そもそもカップを傾けても全く口へ入りもしないのだ。

 息を止めてカップの底をとんとんと叩くと少しだけ口に入ったが、得体の知れない食感と一瞬で麻痺した舌先にすぐに口を離した。



「でも、結局その手加減された奴は他の奴らが……」



 言いかけて、ヴァルゲインターは口を閉じ、そして手を叩いた。


「ああそういうこと?! 自分が殺したって結果が怖いんだ! 要はこの世界にいるはずのない自分が手を下していいのか分かんなくてって事ね? ……カイはさ、その先に何があると思って迷ってんの?」

「分かんない……。だから怖いのかな。他の人がとどめ刺してるのは別に気にならないんだ。そういう運命だったのかなって思えるから……。でも、あたしの場合は違うでしょ?」



 自分がここにいるせいで、生きられたかもしれない人が命を落とす。

 人の運命を変えてしまうことを、恐れているのだ。



「わがままなんだけど……あたし、ここを離れたくないんだ。絶対。だから、ヴァルちゃんに協力して欲しい。答えが見つかるなんて思ってないけど、今のままじゃきっとダメだもんね」

「……なるほどねえー。協力はするけど……。その運命とやらがあるとして、だ。もうカイは十分すぎるほど運命を壊してんじゃないの?」


 ばさっと乱雑に纏められた書類を机の上に投げ捨てると、背もたれにもたれかかりながら足で床を蹴った。

 椅子に回転を付け、椅子の座面を回すヴァルゲインターは子供のように足を伸ばした。

 キイキイと一定の間隔で鳴る椅子の上でヴァルゲインターは回る視界の中で甲斐を捉え続ける。



「やっぱそう思う!? だよね!? それもたまに思うよ! だってあたし、恋人もいるんだけど……その人だってあたしがいなきゃ絶対他の子選んだだろうし! あああ考えると変な気持ちになる! ムラムラ!? むしゃくしゃ!?」

「ね? だからさ、今更そんな事考えたって遅いんだよ。壊れたモンは元に戻らない、分かってるっしょ?」


 どこか、ヴァルゲインターは強張ったような声で話している。



「それに……」



 ガーッとキャスターの音を響かせて甲斐の目の前で止め、身を乗り出して顔を近付けて囁いた。




「この道を選んだのも、カイ……あんたでしょ?」




 身長がある割に小顔だと、甲斐はヴァルゲインターをまじまじと見つめて気が付いた。

 こんなにも近くで顔を見たのは初めてだった。


 案外整った顔立ちで、小さな唇は桃色に色づいている。

 怪しげな笑みを浮かべるヴァルゲインターからは不思議な匂いがした。

 甘いスパイスのような、そんな香りに包まれる。



 これが大人の女性かと、子供の甲斐は不敵に笑い返した。





「ま、みすみす抹殺されちゃあたまんないからね」





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