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第百二十七話 甲斐の涙

 上手く倒れこめなかったリチャードは剥けた手の平の傷に食い込んでいる砂粒を感じた。

 表皮を失った肉が熱く痛む。


 うつ伏せの状態から痛む手に力を入れて仰向けに体を向けると、甲斐がこちらを見下ろしていた。

 白い太陽を背にしている甲斐の表情が見えない。


「謝らないよー? こそこそ探るような事してさあ……めっちゃ不愉快! 最低の気分だわーないわー!」

「……それは、申し訳ありませんでした」


 彼女の口調は軽いが、決して笑ってはいない。


「前みたいに職場に電話してきて聞いたりはいいよ? なんでこっそりやるの? ほんとにストーカー?」

「……申し訳、ありません」

「答えになってなーい! ……SODOMとして来たんじゃなくて、個人的な興味であたしに近付いたって事でしょ? ……だったら、今ここで何されてもだ~れも分かんないよね?」



 彼女は獣のようだと、リチャードは思った。



 触れているだけで火傷してしまいそうなアスファルトの熱に耐えながら手を置いているが、恐怖で動く事が出来ない。

 状況は極めて劣勢というのに、何故か彼女の本心は口にしている言葉とは違う様な気がした。

 嗅ぎ回られたことに対して、ここまで不快感を示すような人間には見えない。




 何か、触れられそうだった大切な何かを隠す為の虚栄のようだ。

 まるでわざと危険な人物だとレッテルを貼りたがっているように見える。




「……リチャード! 忠告だよ、あたしはそんなに優しくない。二度と家には来ないで。これ以上、嗅ぎ回るような真似をしたら……」



 右手を目の前に突き出され、思わずリチャードの首が後ろへ逃げた。

 彼女の腕を蛇が這うように炎が渦巻く。

 その熱気と、燃やされていく空気の流れが顔の表面を撫で回す。




「骨ごと灰にするからね」




 あんなにからりと笑っていた彼女も、所詮は部隊の人間なのか。

 人殺しを生業にしている部隊にいる人間が、まともなはずもない。

 差別的な区別を頭の中で構築しかけていたが、リチャードはどうにか声を口に出した。



「心得ておきます……。今回の件は、なんとお詫びをしたらいいか……」



 詫びを聞かずに甲斐は長い髪を従えて踵を返し、自宅方面へと歩き出した。

 そして、もう振り返らなかった。

 

 甲斐が自宅の中へ入るのを確認してからようやくリチャードは腰を上げ、両手の平を見た。

 手の平には幼い頃に見たような擦り傷が出来ていた。


 皮が擦れて剥けあがり、傷の中にめり込む形で黒い砂が入っていた。

 血は滲んでいるが流れるほどではない。

 スラックスに付いた砂埃を指先で払うと、転送地点までゆっくりと歩き出した。



×  ×  ×  ×  ×



「……お母さーん、ごめん! 救急箱持ってってあげて?リチャード、途中でこけちゃってさ。バカなんだねー! あ、ただあたしが持って来てって言ったとか言わないでよ! そういうのってほらあ、イキじゃないでしょ!」


 靴を脱ぎながら甲斐は大声で亜矢を呼ぶ。


「あらまだいたの!? 本当? どれ、じゃあこっそり見てたって事で持ってけばいいの? っていうか、あんた自分でいけばいいじゃない」

「それじゃだめなのー。いいからほら、はーやーく!」

「それはいいけど……なに、その顔色」


 ぺたり、と亜矢の手が甲斐の頬を覆った。


「やだ、日差しにやられた? 真っ青じゃない。ちょっと涼んでなさい!」

 

 ばたばたとサンダルを履いて救急箱を片手に亜矢が飛び出して行った。

 中へ入り、洗面所へ向かって顔色を見ると確かに蒼白だった。



「……カッコ悪」




 誰かを傷つける痛みを今、思い知っていた。




 仕事で敵をダウンさせるよりもずっと軽い攻撃だった。

 なんでもない事のはずなのに何故こんなにも胸が痛み、罪悪感に包まれているのか。

 もしかするとリチャードに対してある種の親近感を感じていたからだろうか。


 リチャードは恐らく、もう一人の甲斐の存在に気が付いてしまったのではないだろうか。

 フェダインの時と違うこの状況下で、更にSODOMの人間に異世界人である事がばれてしまってはどこにどういった影響が起きるのか計り知れない。


 SODOMにはエルガがいるが、リチャードが甲斐が異世界人である事実を知らないという事は他言していないのだろう。

 それはありがたい事だがリチャードがまだ単に信用に値しないのか、知らない方が良いと思っているのかは分からない。



 その事実自体が、尚更教えてはいけないと言われているような気がした。



 今回の牽制で、リチャードが好奇心を無くしてくれたら。

 そんな願いに似た思いは熱い物を込み上げさせた。

 泣く資格など無い。



 ただ、ランフランクを始め皆が守ろうとしてくれたのだ。

 こんな何も無かった自分を。



 ここにこうして立っていられるのは、皆が守ってくれたからだ。

 だからこそその想いを踏みにじるような真似は、軽率に出来ない。

 


 これで良かったんだ。



 謝る事が出来ないのが辛い。

 そんなものは自分勝手な感情だ。

 いつだって、された側の痛みの方が辛い。



 そうだったじゃないか。




「……甲斐ー! もうどこにもリチャードさんいなかったよー……あら、待っててくれてもいいのに!」




 亜矢が使われなかった救急箱を振りながら玄関に入った時、もう甲斐の靴は無かった。

 ただ、傘立てにそっと美しい花束が立て掛けられている。


「忘れてなんかないっての。……それにしても綺麗だわ、何本かリチャードさんにお裾分けしてあげれば良かった」



×  ×  ×  ×  ×



 SODOMへと帰還したリチャードは自室に向かいながら、頭の中を整理していた。

 その中で一つだけ確信したことがあった。

 


 彼女は嘘を吐いている。




 それは明確だった。


 行方不明、という事にしてフェダインに入り込んだのか。

 それともフェダインからの仕事の依頼により、なんらかの事情で魔法技術開発専門学校からは身を消さなくてはならなくなったのだろうか。


 しかし、その推測では卒業後に特殊部隊へ普通に就職しているという不可解な事実が引っ掛かった。



 何故、自分の命の保証も無い戦場を駆けているのか



 実際にその姿を見た事は無いが彼女の日の焼け方や細いながらも締まった体つきを見る限り、とても内勤とは思えない。

 それにしても畑違いもいい所ではないか。




 傷口の砂利を洗い流して顔を上げるとふと一つの考えがよぎる。




「……結局依頼出来ていない……!? むしろ……断られてしまった……!」




 エルガの細く、冷たい瞳を頭に描くと胃がチクリと傷んだ。





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