第百十七話 悪の定義
「エルガ様が生まれたのを誰も知らなかった」
当時の側近であるボーンにすらも、という言葉を飲み込んだのはボーンの瞳の色がまだ爛々と怒りを浮かべていたからだ。
「デミウ様はプライベートは誰にも……それは私にだって一切明かさなかったし、暗黙の了解でもあった。黙する事だけが防衛手段だからだ!」
「それを知ったのは……先ほど言っていた、特殊教育の場に連れて行った時……ですか?」
「その通り! ある日、デミウ様の部屋へ普段通り朝の挨拶に入った時だ。美しい子供がいた。まるでその子が……光り輝いているような、そんな錯覚すら覚えたもんだ」
光を纏っている、そんな風に見えるのは自分だけではないらしい。
エルガは中性的で、性別が男女どちらでも通用するだろう。
あの美しさが幼少の頃からだったというのは初耳だったが、当然のように感じた。
「大きくなったエルガ様のお姿を、就任式で見た時……息が止まりそうだった。……美しいまま、成長するとは……いやはや……」
「麗しい中にも、聡明さがあります。本当に、不思議な方です」
久しぶりにリチャードは本心を話せたような気がした。
「デミウ様からこの子供を特殊教育施設へ送り届ける任をその場で受けた時は驚いたもんだ! まるで裏世界に足を踏み入れたような……待て待て、違うな。今まで綺麗な世界にいたと思っていたのに、瞬きした瞬間に血の酸性雨が降ったようだった!」
訳の分からない例えが入り込むのは何度目だろうか。
今度もリチャードは耐えた。
「特殊教育施設、というのは一体どういう教育をする施設なんです?」
「なあに、難しい事じゃないさ。世界中のありとあらゆる知識を頭に叩き込む施設だ。一言で終わる。そこでリタイアせずにやり遂げた奴は並のもんじゃあない。私には死んで生き返っても無理な芸当だがな」
さらりと凄いことを言ってのけた。
世界中の知識を頭に叩きこむ、と聞こえた。
「まだ幼い子供をそこへ送る理由はなんです……? 世界中の知識を子供に詰め込んで、一体何をしようというのです?」
「……メインディッシュは魚も来るのか……。腹を残しておけば良かった……。ここは持ち帰りは出来るのか? まあ待て、結論を焦るな。今言おうとしていたのに!」
リチャードがお手伝い天使を呼び出すと、フードパックにしては立派過ぎる柄付きの入れ物を頼んだ。
ボーンの横にサイドテーブルを出して貰い、フードパックをお手伝い天使が置くと彼の口元がすぐに緩んだ。
先を促すとボーンは魚料理の旨さに白目を剥いたまま話し出す。
「……なんだったかな? ……ああ、そうだ。世界中の知識を詰め込んだドリームキッズが何をするかだったな」
手を上げてお手伝い天使に魚のお代わりを申し出たのをリチャードは微笑んで見つめていた。
「色々と必要なんだよ。その辺の天才と言われるような知能指数を持った人間では補えない穴ばかりだ! その世間一般的な天才とやらは得意分野に関してはピカイチかもしれない。しかし、何もかも知っている訳でもなく、知識は経験に勝る。世界中の各分野の歴史を網羅し、原理を理解し、分からぬ事が無いというのは最も優れているだろう!」
「それは……そうですが……。そんな事が……可能なのでしょうか……? もしやその教育機関というのは、違法では……?」
一つの分野を、一般人が極めようと思ったら人生を懸ける事になるのではないだろうか。
「違法! ははあ、リチャード。青いな。我々SODOMは法の外にいる。その自覚が無いのか?」
「法の外……ですか?」
「そうだ。皆を守りたい! 自由を尊重しよう! と声を張り上げ続けている国家は、自国ではない線引きされたラインの外にいる人間を殺す為に我々の開発した兵器を買っている。おかしいだろ? 一歩、その線をまたげたら守られる人間になるのになあ。使う者が悪か?作る者が悪か?」
返事を迷ってしまった。
作る者が悪いと答えてはいけないのは分かっていた。
SODOMを心酔し、その代表達へ『様』を付けて呼ぶ彼にSODOMを否定するような返答をしてはいけない。
だがリチャードはどうしても兵器を作り、それを金と交換して渡してしまうSODOMの方が悪に思えた。
「リチャード、リチャード。私の前で取り繕おうなどと思うな。君の立場も痛い程理解できているつもりだ。誰にも相談できず、常に責任の付き纏う仕事で代表から信頼を獲得するのに必死だろう?だから私は君の良き理解者でありたいと思うよ。私にはそんな相手がいなかったからな」
「……すみません。あまり考えた事の無い部分を突かれたもので……」
「答えはいつだってシンプルだ。君が今握っている見事な銀細工のナイフとフォーク。これを凶器にした殺人が起きたら、これを作った職人が悪いと責め立て憎むか?」
「……いえ……。これを使った者が、悪です。ただ、この二本には正しい使い方……、作った職人が最も望んでいる使用方法があるはずです。それが……目的……」
気が付いてしまった。
辿り着いてしまった。
表情が変化してしまいそうで、慌ててワイングラスを口に運ぶ。
ボーンはそれも見透かしているのだろう。
今の流れでうっかり結論づけてしまえば、この会食はここでお開きになっていただろう。
「賢いがまだ巧くないな。君が何を考えているか、どんな感情を抱いたかにはあえて触れないでおこう。……目的、その通りだ。SODOMは世界の平和を守る手伝いをしている! 力を欲する者には力を、盾を欲する者には盾を……癒しを欲する者には慈愛を。だからこそ、兵器は力であるが目的としては盾だ。力は盾と紙一重であり、信頼だ。使い方を間違えなければ、な」
兵器の購入は国の資力の誇示であり、牽制にもなる。
戦うのであれば全力で挑むといった言葉無き意思表示だ。
それがSODOMの目的だと、そうボーンは言う。
だが、リチャードにはマニュアルの一文をまるで自分の言葉のように告げられたような気がしてならなかった。
堂々と、まるで大義名分のように。
「悪はいつだって行動した者になってしまう。なに、この世界に住まう七十二億人を納得させる必要なんてない。たった一人だけ納得させるんだ。どっちが楽か分かるな?」
「たった一人の方がそれは楽ですよね……。しかし、誰を……?」
「自分を、だよ。疑うのも、信じるのも誰でもない。そして絶対に切り離せないぞ。自分が何故ここに立っているのか。常に答えを求めてくる、うるさい自分を黙らせるのに、たった一人で向き合い続ける。どちらが屈すか見ものだな」




