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第百十六話 特殊教育施設



「いや、驚いた! 君の三倍は生きているだろう私が、こんな名店を知らなかったとは……! 恥ずかしい!」



 会見や外出の際はいつも前代表の傍にぴったりと付いていた彼は、驚くほどよく笑った。

 思った通り、素直な性格だ。

 難しい表情も、眉間の皺もどこへ行ってしまったのか。


 初対面のボーンの見せた表情はここには無かった。

 確かに見栄を張っている言葉も見受けられるが、見栄だとこちらが見抜けてしまう程度のものだ。

 ボーンはやはり、可愛い人物なのかもしれない。



 気を許しかけたリチャードは自分を戒め、思い直す。



 『そう見せている』だけではないのか。

 こちらの警戒を解こうとしているだけではないだろうか。


 どんなに良さそうな人柄でも、あのSODOMの最高責任者の側近だった男だ。

 何かしら黒い部分があるに違いない。



「まだ前菜なので、お楽しみはこれからです。個室ですが、貸し切ってありますのでゆっくりとお話しもできますよ」



 ぴたりとフォークを動かしていた手が止まった。

 笑顔を崩さぬように気を配りながらボーンを見つめる。

 

 何か勘ぐられてしまったのかとリチャードは緊張する。



「そんな特別待遇をしてもらういわれは無いぞ? 私には今、何も……いや。もしや、君は…私の力を必要しているのか?」


 深刻な声とは裏腹にとても嬉しそうな顔をしてボーンは再び手を動かし始めた。


「君も……あー、リチャード君だったかな。ふむ、現代表の側近ということだったが……見ない顔だな。いや待て、もしや重要な仕事をもともと……」


 否定しようとリチャードが口を開いたとき、ボーンはすぐに手で制した。


「いや、分かった! 違うな! どこか、むしろ地味な部署から大抜擢を受けて些か困惑していると見た! どうだ、当たりだろう!?」

「見事です。やはり、隠し事などできませんね」


 その言葉にボーンは小鼻を膨らませ、喜んでいた。


「なに、そんなに難しく考える事はない!」


 急に胸を張ってフォークを指揮棒のように振りながら話すボーンは、どうやらとても気を良くしたようだ。

 SODOMを退職してから、どうやらこの数か月は彼にとって味気ない日々だったらしい。

 頼られているという事実を喜んでいる。

 意気揚々と語りながらワインを流し込む仕草からは気品の欠片も感じられない。

 人が通常生きていく中で経験するであろう何百倍も、こういった高級店を堪能しているはずのボーンは、それほどリラックスしているという事だろうか。


「マナーも出来ればいい、それだけの事だからな! 私はプライベートでは好きに食べ、好きに飲むぞ! 君もそうしろ! 匂いを味わう!? ふん、酒は酒だ! そんなに香りにこだわるならアロマキャンドルでも嗅いでいたらいい!」

「素晴らしい……! そうですね。マナーなど形式でしかありません。どれほど覚えて、どこでこなせるか。食事を楽しむというのは本来、ボーンさんの言う通りだと思います」


 ボーンは典型的におだてられることに弱い男である。

 

「前代表の話をしよう! 私の仕えた世界最高の男だ!」

「ぜひ、お聞かせ下さい」

「デミウ・ルゴス前代表は現代表であるエルガ様の実父であることは知っているな?」


 それぐらいはニュースを見ているだけでも分かる話だ。

 リチャードは笑顔のまま頷く。


「では……エルガ様のファミリーネームがデミウ様と異なっている理由は知っているか?」


 言われてみれば、そうだ。


「ほう、知らないのか! ならば教えてやろう! 安全の為だよ、リチャード。エルガ様自身のな」


 初耳だったが、あまりにオーバーリアクションをするとボーンが食いついて来て話が進まなくなりそうだ。

 どういう意味か分からないといった風に小さく首を横に振ると、嬉しそうに鼻を膨らませた。


「リチャード、考えるんだ。我らSODOMという企業はどれほど世界へ貢献している? その何倍、人からの恨みを買っている? 代表の命を、その親族の命を狙う者がどれほどいると思う?」


 言葉にすると簡単な事だ。

 だが、エルガが現代表に就任してから頑なに外出をしないのもそういったリスクを極力軽減する為なのだろうか。

 

「前代表は徹底していた……。エルガ様の戸籍も全てロックし、その痕跡を残さなかった! そしてエルガ様には残酷とも思えるやり方で身を護る術、思考の形成を行った。……特殊教育だ」


 皿の上にある香草を口にしたボーンは、今話している内容に対して顔をしかめたのだろうか。

 香草の味に反応しているのか分からない。

 特殊教育という馴染みの無いフレーズにリチャードは何か、重大な意味があるように感じた。


「……特殊教育、ですか? エルガ様はフェダインをご卒業していますよね?」

「高校に行く年になる頃には、もう特殊教育は終わっているのだ。……それは、物心が付くか付かないかの時から始まる……。各界の偉人達の子供達や研究対象の名も無き子供が送り込まれるあの施設は知る者は少ないだろうな」



 そうして語り出したボーンは、側近として相応しい顔だった。



「私は多くの間違いも、罪も犯してきた。それは全て、私が土の下で眠るまで共に生き続ける問題だ。……しかし、こればかりは今も……ペラペラになった良心が燃えるようにこの辺を掻き毟るんだよ」



 ボーンのしわがれた手は、心臓の辺りを擦っていた。

 メインディッシュを運んで来たお手伝い天使がいなくなるのを待ちながら、二人はワイングラスを傾ける。



「ワインという酒だけを知らないが、他の酒の味を知っている者に、これは罪人の血で出来た飲み物だと言って赤ワインを注げば信じるだろうか?」



 突然ボーンは不思議な質問をする。



「いいえ、信じないでしょう。冗談だと笑うのでは?」



 何度かボーンは真剣に頷いた後、質問を変えた。



「では、これまで何も口にした事の無い幼子はどうだ?そう言って赤ワインを飲ませたら信じるだろうか?」

「……信じるでしょう。小さな子供にとって、判断材料は少ないでしょうし……」



 その答えにボーンは満足そうに頷くと、深く息を吐いた。



「……エルガ様の受けた特殊教育というのはそれに近い。あそこは死人しかいなかった。生きている者など、一人もおらん。……泣きも笑いもしない子供たちは息をしながら勉強し続けているだけだ。……そこへ連れて行く役目を与えられたのは私だった」



 ボーンの顔は、どこか自嘲気味に見えた。



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