第百四話 アルビダ・マシュー
リチャードは常日頃、清潔感を失わぬように気を付けている。
髪が跳ねていないか、靴が汚れていないか、眼鏡が曇っていないか。
見た目が地味なことは自分でも分かっていたし、SODOMの事務をしていた時も周囲の服の多さやお洒落さには敵わない事も分かっていた。
せめてハンカチは毎日変えてみたりと第一印象を良くしようと努めていたが、今日に限ってはその努力は一切効果は無いようだった。
「殺人に加担しろと……そう言うんだな?」
結果的にそう考えられてしまうと、予想していた反応だ。
反論する前に有名研究者であるローレンスに体を押され、リチャードは追い出されてしまった。
また一人、手帳に掛かれた名前に×印が増えた。
「同族で殺し合う必要性を是非納得できるように説明してくれ!」
ローレンスの次はマーロンだった。
彼もまた、大きな賞を取った研究者だ。
だったらこれまでの全ての戦争が起きた原因を調べたらどうだと言いたくなったが堪えていると、杖で叩かれ、敷地から出るまで追い回されてしまった。
SODOMといえど一企業だである。
SODOMが世界で起きている戦争のゴングを鳴らしてきたわけじゃ無い。
オーバーリアクションで挑発的な態度を取って来るなど、資料室にある資料には書いていなかった。
一応名前のピックアップをするのに、存命している有名な技術者や発明家達の書いた本を読み、あとがきまで読み込んで来た。
ありきたりなありふれた言葉で締めくくられる部分を次々に読んでも、人物像は浮かんでこなかった。
結果はこれだ。
「よくもまあぬけぬけと……! 個人名でアポを取るとは卑怯な!」
SODOMと名乗った瞬間に受付に音声通信を切られた時に気付くべきだった。
技術者を探しているのを知られたくなかったがここまで空振りをしていると、噂は回るだろう。
毎年、就職希望者が世界中から押し寄せてくるがもしかするとこれからあの悩ましさが始まるかもしれない。
どこからか公開していないはずのSODOMの通信番号を入手し、自分を売り込んで来る若者が多いが一切採用はされない。
SODOMはスカウト性で成り立っているらしい。
確かに一般企業の事務員として以前は働いていたリチャードですら、前の職場に突然SODOMの社員が一人訪ねて来て、応接室で引き抜きを受けた。
スカウト候補に上がった者に断られたという話は聞いた事も無い。
どちらがデマなのか分からなくなってくる。
ようやく、与えられた仕事の難しさを味わっていた。
どうやって人選を行っていたのだろう。
自分は何故選ばれたのだろう。
もしかすると、本当に何かの間違いかもしれない。
リチャードは×ばかりのリストの中から、最後の人物を訪ねていた。
「……どうぞ」
「失礼します、お忙しいところ申し訳ございません」
アルビダ・マシューはまだ夏だと言うのに毛布を羽織っていた。
研究所を離れた彼女は余生を楽しんでいるようだ。
二階建ての木造の家はコテージのようで、森の中にある。
どこか懐かしい気持ちになる匂いが彼女の家を包んでいた。
窓は開けられているが、今日は風も入らないだろう。
「いいのよ、さあ座って。……飲み物は何がお好きかしら」
かちりと発火石を鳴らして小さなかまどに火を灯した。
この家のどこにも魔法機器は無く、低い天井に吊るされているのはオイルランプだった。
外の世界を遮断する為のカーテンすら無いのは、明かりを取り入れる為だろうか。
もっとも、こんな森の中では外からの視線も気にならないだろうから必要性を感じないのかもしれない。
とても綺麗に年を取ったアルビダは六十八歳のはずだ。
年に合わせた皺と品格は彼女を形成するのに相応しいものだった。
「……なんでも結構です、ありがとうございます」
手をかまどの上にかざして暖まったのを確認すると、水を入れた年季の入ったケトルを置いた。
小気味良い、小枝が焼けて爆ぜる音だけが聞こえる。
「疲れているようね。……若いのに、休むのを進めたくなる顔色よ」
この家の家具は小柄な家主に合わせて全て小さい。
彼女を見下さす姿勢にならぬように前かがみになって座るリチャードの向かいにアルビダが座った。
やはりこの家の主とばかりに、この光景がしっくりくる。
「……いえ、そんな……」
数年前に現役を退いた彼女は、一人でひっそりとこの自然に囲まれた家で暮らしているようだ。
写真一つ飾られていないので家族構成などは不明だが、この家に彼女以外の人間が暮らしている方が不自然な気がした。
「……それで、リチャードだったかしら? 何故私を尋ねて来たの?」
アポイントを取った際にSODOMのリチャード・アッパーだと名乗ってもアルビダは話を聞いてくれた。
通信では話しにくい内容なので、良ければ伺いたいと伝えると、自宅の住所を教えてくれたのだ。
研究所を持たない彼女からするとごく自然な事かもしれないが、警備員を配置したガラス張りの部屋に通されたり、移動中の僅かな時間に予定を立てられ、並走するために早足で歩きながら内容を伝えると散々罵倒されたこれまでからすると非常にありがたいことだった。
「……本を、読みました。マシューさん、貴女の書いた本です。とても緻密な計算と、見逃しがちな思考の形成に役立つ丁寧な補足……どれも素晴らしかったです」
「それはありがとう、リチャード。……家まで感想を言いに来てくれたのは貴方が初めてだわ」
青い瞳がチャーミングに細くなった。
白髪に一筋、黒い髪がラインのように入っている。
小さな口元は控えめに微笑み、小さな手で毛布を肩に掛け直した。
「回りくどいのをお許し下さい。我々SODOMは現在、開発・研究者を探しています。お力添えを頂きたい」
一度眉を上げ、嬉しそうな笑顔を浮かべたアルビダはすぐに首を横に振った。
だが、ここで引き下がれない。
「……死の中の命を司る神『シウテクトリ』と呼ばれたアルビダ・マシューさん」
飛び上がりそうな笛吹きケトルの音が鳴り響いた。
激しさを増す湯の沸騰する様子を聞きながら、アルビダはじっとリチャードを見つめていた。




