第七回「逃水」
大渡星です。
この作品を書いているせいか、最近よく夏ソングを聴きます。
なお、今一番聴きたい曲は、ミスチルの「HANABI」です。
先日の夕立に冷えたのは、頭だけではなかったらしい。
翌日から僕は風邪を引いて、今日に至るまでこじらせていた。
夏風邪はとりもちのようにしつこく、この暑さも手伝ってか、どろどろと溶けて僕の身体を蝕んでいくようだ。
咳をすると頭に鈍い痛みが走る。熱はまるで発散されず、火照りが続いていた。その火照りは薄ぼやけた世界に僕を誘いながら、焦りに似た感情を掻き立てる。
「書かなきゃ……」
病院にも行かず、僕は文机に向かっていた。キャンパスノートに文字を書き殴るたび、驟雨に濡れていた数日前の惨めな自分を思い出す。
僕はきっと、早乙女さんの代わりだった。それを知ったとき、心の思わぬところが弾けた。
期待していたのだ。早乙女さんの言葉が、あるいは真実ではないかと。
――響子は多分、お前を誘いたかったんだ。
そんなことは有り得ないと予防線を張りながら、その実、僕は「あわよくば」と線の向こうへ頭を覗かせていた。淡い希望――まるで一匹の蝶を追うかのように。
そして遂には、弾丸に額を撃ち抜かれた。それだけのことだ。
「あほらし……」
つくづく思い知らされる。自分の愚かさ、滑稽さ、卑しさ。
どこか自分を特別だと信じているから、安易に状況に期待する。そして期待に依存する。
僕の人生は、久しく依存の連続だったのかも知れない。己の選択は報われるという、およそ現実離れした望みへの……。
SNSアプリを開けば、かつての同級生たちが至って普通の人生を送っている。
旅行に行きました。同窓会を開きました。結婚することになりました。子供が生まれました。転勤が決まりました。昇進することになりました。やっぱり地元は最高です。
そういう普通を小馬鹿にして、退屈な人生と断じて、僕は東京に出てきたはずだった。
しかし、今ではどうだ。東京進出という田舎者の誇りなど消し飛び、六畳のぼろアパートに籠もって作家の真似事をする日々。これが特別な人間の暮らしだろうか。
響子さんや早乙女さんに出会って、僕は何者かになれたような気がした。求めていた充実を手にしたと思った、筆を執る理由も消え失せるほどの充実を。
でもそれは仮初めだったと突きつけられた途端、また小説と称したものを書き始めている。この果てしない自慰行為は、いつになったら終わるのだろう。
――そうだ、僕は人生の危うさから逃れるために書いている。世界の欠落を埋めるために書いている。間違った期待に裏切られては、負け惜しみのように書き殴る。
これは物書きとして誤った行為なのか? こんなことをしている人間はプロにはなれないのか?
執筆は心を洗う行為だと語る作家が居た。僕と何が違う? 息苦しさを抱えながら、呼吸するために物を書く。それなのに一方は世間にプロと讃えられ、もう一方は有象無象のワナビという烙印を押される。
片や職業作家、片や大人になれない夢追人。哀れなピーターパンと人は言う。
くそっ、嫌気が差す。女々しい愚痴を零すばかりで、一向に前へ進めない自分に。
こんなやつが作家になれるものか。心からそう思う。
そう思うから、逃げるために書き殴る。繰り返す。
何に追われているのか、何を追っているのか、どちらも見失いながら廻り続ける。
物書きになりたい。夢を叶えたい。誰かに認められたい。幸せになりたい。
逃水を追う旅人は、そんな「願い」を課されて道に迷う。
渇きを潤すものは此処ではない何処かにあるはずだと、許しを請うように旅を続ける。
許されたい。許されない。それが旅路の果てに待つ全ての答え。
「……ちくしょう」
僕は本棚から一冊の文庫本を抜いた。梶井基次郎の『檸檬』。
実家から持ってきた本のうちの一つだ。それを開くこともなく、思い切り床に叩きつけた。
カバーが外れて、ページの間からスピンが飛び出す。腹立たしさは収まらない。
「ちくしょう、ちくしょう!」
夏目漱石『こころ』。
村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。
ヘミングウェイ『老人と海』。
芥川龍之介『トロッコ』。
川端康成『みづうみ』。
ヘッセ『車輪の下』。
チャンドラー『ロング・グッドバイ』。
田山花袋『蒲団』。
米澤穂信『二人の距離の概算』。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』。
星新一『きまぐれロボット』。
シャイクスピア『夏の夜の夢』。
バージェス『時計仕掛けのオレンジ』。
堀辰雄『風立ちぬ』。
ドストエフスキー『罪と罰』。
………………。
「ちくしょうが……」
全部、投げた。六畳の部屋には乱雑に開かれた文庫本が散乱し、混沌とした様相を呈していた。荒れた心模様のようだった。
ここにあるもの全てに否定されている。強迫観念のように取り憑いたそれが離れなかった。僕の中にある物語が、僕自身の首を絞めてくる。
「はぁっ……はぁっ……」
ぐるぐる、ぐるぐる、意味もなく。火炙りに処されたような苦悶の中、心臓が激しく拍動し、視界がぐにゃりと歪んでいく。どうやら熱が上がってきたらしい。
「……コンビニ、行かなきゃ」
切らしていたスポーツドリンクを買うために、僕は財布をポケットに突っ込んで家を出た。
アパートの階段を一段ずつ下りながら、前後に揺れる身体を手すりで支える。
街は炎天下だった。焼き付けるような太陽光線を浴びて、僕はふらつきながらもやっとの思いでコンビニに辿り着いた。
レジは混み合っており、前に数人が並んでいた。その会計を待つ時間は、ほとんど拷問に等しく感じられた。
冷房の利いたコンビニを出ると、目眩が更に激しくなる。もう日の照る道を帰るのは無理だ。遠回りだが、日陰のある住宅街を通って戻るしかない。
陰になっている民家の塀伝いに歩き、僕は自宅を目指した。塀に身体を預けながら、芋虫のように歩みを進めた。無性に涙が溢れてきた。
「僕だって……僕だってさ……」
朦朧としていて道を一本間違えたのか、気付けば見たことのない通りに出ていた。
あれ、ここから、どう帰るんだっけ……。
頭に地図を描くが、いくら想像しても輪郭がぼやけてしまう。
刹那、唐突な吐き気に襲われて、僕はその場に崩れた。胃液が逆流する不快な感覚が胸に走る。
「なんか、おかし……」
吐き気が絶頂に達した瞬間、胸の不快さは消散し、代わりに黒い靄が眼前を覆った。
視界の上から闇が侵食し、景色を塗りつぶしていく。もう身体の制御が利かない。
「沢野……?」
聞き慣れた声が耳に届いた。現実か、それとも幻聴か。
確かめる気力は残されていないようだ。
「おい、沢野!」
それは恐らく、早乙女さんの声だ。
ああ、どうしてこんなときに貴方の声を聞くんだろうなぁ――
熱されたブロック塀に肉体を擦りながら、僕はそのまま暗い場所へと沈んでいった。
続く
僕も三年前、気絶したことがあります。
インフルエンザに罹患したのですが、体質的な問題なのか三日間も陽性反応が出ず、リレンザ等の特効薬を処方してもらえなかったせいで診察室で倒れました。
その話をすると大抵笑われるのですが、僕としては笑い事じゃありません。
病気に罹るたびに、身体は何より大切な資本だと痛感します。基礎体力つけよう。




