第六回「夕立」
大渡星です。
最近、地元に得体の知れない浮浪者ネパール人が現れて、住民に小銭を無心しているようです。
僕はauショップ前で絡まれました。母校の中学にも出没しているとか。
その徘徊を勝手に「グレイトジャーニー」と呼んでいます。彼はいつ進化するのだろう。
重苦しい曇天が続いている。ここ数日、東京は晴れ間を見なかった。
そのくせ蒸し暑さは酷くなるばかりなのだから始末に負えない。
ベランダの窓枠に腰掛けて、僕は苦い顔付きで天を仰いでいた。
三人で上野に遊びに行ってから一週間が経った。
僕は今週、一度も「ラグタイム」に足を運んでいない。店の扉を開けたとき、いつものカウンター席で早乙女さんがコーヒーを飲んでいる姿を想像すると、どうしても通う気にはなれなかった。
――俺は響子が描きたいんだ。ずっと、昔から。
あの告白の意味を、僕は考え続けている。
早乙女さんの描きたいもの、絵描きとしての原動力。それは幼馴染の響子さんだった。
つまりそれは、響子さんが好きということなのだろうか。
今でも気軽に付き合える幼馴染なのだから、これまでにも二人の仲が発展する機会はあったはずだ。けれど早乙女さんは、響子さんと出掛けたことなど数えるほどしかないと言う。
一体どうして、その機会を見逃し続けたのか。あの二人の関係性が、部外者の僕には中々見えてこない。こんなことをいくら考えても霞の正体を暴くようなもので、徒労かも知れなかった。
「……やっぱ、直接聞くしかないか」
早乙女さんは答えないだろう。しかし、響子さんならば。
彼女の口から二人の関係性を語ってもらえれば、それが早乙女さんの真意を知るヒントになるかも知れない。
僕は窓枠から立ち上がると、何日ぶりかに部屋着のジャージを脱いだ。
ガラス越しに「ラグタイム」の店内を覗いてみた。早乙女さんの姿はない。
僕はそのまま扉を引いて店に入った。何だか彼を避けているみたいで、こういう通い方は好きにはなれなかった。
「いらっしゃいませ。沢野くん、今週は初めてだね」
「ええ、ちょっと……まあ、その、忙しくて」
「そうなんだ。待ってて、いつもの用意するね」
ぎこちないやり取り。初めて会話したときと似たようなものだが、今はお互いに近付いた関係性がある分、余計にぎこちなく思える。
でも、響子さんは普段と変わらない。変わっているのは僕の方だ。
本人の居ない場所で、早乙女さんのことを聞き出そうと画策している卑しさが全身を錆びつかせているように思えた。
「今週はね、早乙女っちも来てないんだ。このところよく通ってくれてたのに」
キッチンの奥から声が飛んでくる。彼女の方から彼の名を出したことに戸惑い、僕は答えに迷って「そうなんですか」と返しただけだった。
「沢野くんが来なかったから、かな」
レモンティーの注がれたティーカップがカウンターに置かれた。
僕はぬるめに淹れられたそれに口をつける。
「早乙女っち、沢野くんのことが好きみたい」
「ぶっ」
一口目で紅茶を噴いた。
それを見た響子さんはすぐにタオルを取り出すと、僕の口周りを拭ってくれた。
「ごめんね、驚かせちゃった? 変な意味じゃないよ。だって早乙女っち、最近はよく沢野くんの話をしてるんだ」
「あ、自分で拭きます、すいません」
「良いよ、気にしないで」
タオルを受け取ってカウンターを拭きながら、僕は響子さんの続きを待った。
「早乙女っちってさ、昔からあんまり他人に興味がないタイプなの。休み時間も、一人で図書室に居たりして。でも本を読んでるわけじゃないんだよ。絵を描いてた」
「……分かる気がします、それ」
「沢野くんも?」
頷きながら、僕は過去を思い出した。
他人に興味がなかったわけじゃない。出来る限り、周りに合わせて生きようと思っていたし、それなりに友達も居た。
けれど心の何処かで、違う、これは本当の僕じゃない――そう喚き散らす自分を知っていたのも事実だ。
そんなとき、閑散とした図書室に行くと不思議と心が安らいだ。
好きな本が読めるから、というわけではない。むしろ本など読まなくても良かった。
日に焼けたかび臭い本の匂いを嗅いで、書架に並び立てられた背表紙を眺めているだけで満足だった。ここには古今東西のあらゆる知識がある。それが僕を包んでくれている。僕を守ってくれている。
だからここに居れば、僕は本当の自分で居られる……。
あの大量の書物を見渡して、果たして自分は死ぬまでにこれだけの知識に触れられるのだろうかという不安、そして微かな絶望。それすらも甘美な憂鬱に思えたのだ。
「そんな早乙女っちなのに、沢野くんのことは気になるのかな。ほら、この間も『沢野が行くなら』って。上野で遊ぶ約束をしたとき」
「ああ……」
曖昧な返事しか出てこなかった。あのときの早乙女さんがどんな気持ちだったのか、僕には分からない。
「沢野くんには心が許せるんだよ、きっと。年も近いし、沢野くんは優しいし。それに物書きと絵描きで、感性も似てるんじゃない?」
「感性ですか……」
それはあまり意味のない共通項だった。
素人の僕とプロの早乙女さん。たとえ感じ方が同じでも、表現出来るものに雲泥の差がある。どこまで行っても僕たちは、対等になることを望めない関係なのだ。
「……早乙女さんはプロですから。僕とは違いますよ」
何よりこんな卑下にこそ意味はないと分かっている。それでも吐き出さなければ、レモンティーの味も分からなくなりそうだったから。
「早乙女さんはすごいです。夢を叶えて絵描きになった。自分のやりたいことを仕事にして、それでご飯を食べてる。描くことを、命の糧にしてる」
「……多分、ちょっと違うと思う」
「え?」
僕は食らい付くように響子さんの目を見た。何だか寂しげな目をしていた。
「プロになったとき、早乙女っちは言ってた。俺はこういう風にしか生きられないんだって。それって、私みたいな素人には格好良い台詞に思えるけど、本当はものすごく悲しい言葉なんじゃないかな」
「……早乙女さんは、絵描きになることを望んでなかったんですか?」
「ううん、望んでたと思う。絵を描いてるときの早乙女っちは、すごく幸せそうだったから。でも、いつからか苦しそうに変わった。それを境に、早乙女っちはどんどん人嫌いになっていった」
僕にはその転換となったものが、何となく分かる。
響子さんへの恋心。それを自覚したときから、早乙女さんは絵を描くことが苦痛になったのだろう。
早乙女さんがキャンバスの上に描いた響子さんは、きっと早乙女さんの描きたい響子さんではなかったのだ。
真実を描こうとすればするほど、彼の描く響子さんは偶像へと変わっていく。恋心を捨てない限り、その目の曇りは消えない。けれど恋心を捨てるのは、響子さんを描きたいという願いをも捨てること。
そうか。この終わらない堂々巡りこそが、早乙女さんが響子さんに対して何の答えも出せていない理由――
そのとき、窓ガラスに手を置きながら響子さんが言った。
「私、好きだったんだ。早乙女っちのこと」
「へ」
曇天に照らされた横顔は、既に僕の知っている彼女ではなかった。
どんどん分からなくなる。あの日、あれだけ一緒に笑い合えた人たちのことが。
「……今でも?」
そう問いかける僕の声は、明らかに震えていたことだろう。
響子さんは小さく笑うと、首を振った。
「そういう感じじゃないんだなぁって。だから、私たちはずっと友達」
誤魔化すような笑い方だった。上手すぎて、騙されそうになる。
いや、それは彼女自身を騙すための笑顔かも知れなかった。
僕は直感した。響子さんは今でも、早乙女さんのことが――
「……似てたからですか」
「うん?」
「僕に声を掛けてくれて、遊びにも誘ってくれたのは……僕が早乙女さんと似ていたからですか」
今度は困ったような微笑みを見せ、響子さんは「そういうわけじゃないけど」と呟いた。
「……この話、もうやめよっか」
「でも」
「ね、やめよ」
響子さんはこちらに背を向けて、キッチンの奥に入っていく。
洗い物をしているのか、静かな店内に水道の流れる音が木霊した。
僕は取り返しのつかないことをしてしまった後悔に駆られ、空っぽになったティーカップの底を見つめ続けていた。
「おい、きみ」
その声に振り向いたのは、どれくらい時間が経った頃だろう。
僕を読んだのは、テーブル席に座った初老の男性だった。僕よりも長い常連客だ。
「きみ、今日は小説を書いてないんだな」
男性は読みかけの本に栞を挟むと、老眼鏡を外して僕の方を見た。
「いつも書いてただろ。そこに座って。小説」
「は、はい。書いてましたけど」
「完成したのか、あれ」
「いえ。筆が止まっちゃって。書きたいものが、分からなくなったというか……」
男性は無言で僕を見つめていたが、暫くして「そうか」と視線を逸らした。
「何か、賞に応募する予定なのかと思ってたよ。作家志望なのかと」
「そ、そんな。難しいですよ。僕には到底……」
「まあ、そうだな。うちの息子、あ、二人居て、兄の方なんだがね。とある編集社で働いてるんだ。小説の新人賞を取り扱うこともあるらしい」
男性は閉じていた本を再び開くと、それを読みながら語った。
「その息子が言ってたよ。新人賞ほど業の深いものはないってね。大きなものになると、毎回千作を超える作品が送られてくるらしい。しかし、ほとんどはろくに読まれず捨てられる。何百という作品が、それに費やされた膨大な時間ごと」
男性は息継ぎがてらコーヒーを飲むと、続ける。
「そもそも新人賞を企画している文芸誌。あれを買っているのは、現役の作家と一部の文学好きを除けば、後は全て作家志望の人たちだそうだ。おかしな話だと思わないか。純文学なんかは特にそうだが、読み物という娯楽は、読みたい者より書きたい者の方が多いんだね」
そこまで言って、男性は疲れたのか痰の絡んだ咳をした。
「いかんね、喋り過ぎた。どうも年を取ると……。きょうちゃん、コーヒーお代わり」
キッチンの奥から返事が聞こえた。
響子さんが男性に二杯目のコーヒーを持ってくるのを見計らって、僕も席を立った。
「夕立が来そうだね。沢野くん、傘持ってる?」
いつの間にか、巨大な雨雲が街を覆っていた。今にも破裂しそうな傷口に似た空が見える。
傘を忘れた僕のために、響子さんは店の置き傘を貸してくれた。
「次に来たときに返してくれれば良いよ。好きな日に持ってきて」
彼女はすっかり元の響子さんに戻っているような気がした。
ほんの数分前に見た横顔の面影は、蜃気楼のように消え失せている。
僕だけが狐につままれたような気持ちだった。
店を出て五分もすると、千鳥の声と間違うほどの雨音が迫ってきた。緞帳を一気に閉じたような追い立て方だった。
でも、僕は傘を開こうとはしなかった。借りた傘を右手に握ったまま、凄まじい夕立に打たれ続ける。一瞬にして全身が水浸しになった。
あの初老の男性が話していたことは正しい。他人を読もうとした者ほど、気付けば自身を語ることだけに終始している。観客も聴衆もない舞台で、たった一人。
だから時には、こうして頭を冷やさないと分からなくなるのだ。
僕が本当に読みたいと願っていたものは、何だったのか。
続く
昨年の夏、池袋で夕立に降られました。
品川では快晴だったのに、池袋はバケツの底をひっくり返したような雨です。
待ち合わせしていた友人には「お前は海洋生物だから大丈夫だろ」と言われました。
それ以来、夕立を浴びながらオットセイの気持ちになっていますが、未だにてんで分かりません。




